見出し画像

就活への恐怖とカメレオンな私

今日、友人から就職に向けてという感じの授業の初回の感想を聞きました。

自分を生き物(動植物)に例えるとなんですか、その理由は?  と聞かれたそうです。
この質問、ほんとに聞かれるんだ……と思いつつも戦慄してしまいました。


コロナ禍で社会の常識が変貌しつつある中、ただでさえ恐ろしい就職がさらに私に牙を剥いてきそうで今から恐怖に押しつぶされそうです。


ただ、(本当に就活で言うかは別として)この質問への自分なりの回答は決めてあります。



生き物に例えるなら、私はカメレオンです。


まあこれが自己アピールに繋がるとはどう考えても思えないんですけど、それはそれとして。

ご存知かと思いますが、カメレオンの最大の特徴は、周りに合わせて色を変えて、景色に溶け込むことです。そうすることで、敵に見つかりにくくなるというはたらきがあります。


多分、というか確実に、私は他人とどこかズレています。

単独行動が平気だし、便所飯に言うほど抵抗もないし、定期的に人間関係をリセットしたいし、死ぬことに恐怖もないし。

だけれども、人と違うことに、人一倍恐怖を感じてしまいます。
同じ方向をみて、同じ歩幅で動いていきたい人間なのです。

加えて、私は人間が大好きです。周りにいる魅力的なひとりひとりの個人はもちろんのこと、破滅に向かっていることが分かっていながらどこかそれを他人事のように思って変わらぬ日々を過ごしてしまうような種として愚かなところも愛しいと思っています。
だから、たくさんの人と関わって、その様を見ていたい。ひとりになってしまうとこれが難しくなります。


だから私はとりあえず、周囲の他人に合わせることを覚えました。


他人は私にとって、人間界でうまく生きる先輩のようなもの。合わせていればとりあえず浮くことはありません。

カメレオンが色を合わせるように。
服装は個性を出しつつも奇抜にはならないように。口調や方言の有無は会話する人間の多数派に揃える。連れたって歩くときは外から見て集団に釣り合っているように行動に気を配る。

今となってはこれが、無意識に行えるようになってしまっています。



また内面に関しても、「私」という人間の中身は他人の考えや意見のパッチワークで構成されています。

高校時代、演劇部のワークショップである劇団員さんが口酸っぱく言っていたことがあります。


「Yes, and……」の精神が大切だ。


ということです。
一旦相手のことを否定することなく受け入れる。相手の言葉をまず受け取る。そして、自分の考えを付け足していく。それが繰り返されることで演劇は成り立っている、とおっしゃっていました。


これは現実世界でも同様だと、私は思います。


人生という舞台の上に、私は立っていて。
他のキャストたちとの大団円を目指している。

そんな中で、無為な対立は私の望むところではありません。そもそも、「みんな違ってみんないい」ので否定する理由もありません。だから私は受け入れる。学部や出身地を超えた友達たちが繰り広げる様々ある思考。これを私は、全部飲み込んでしまおう。そして、自分の僅かな骨子に響いた言葉を、心を繋ぎ合わせて、「私」をつくろう。
これにそれらしいガワを被せれば、私も人間になれるかしら。攻撃されることなく、貴方たちに溶け込めるかしら……。


どこが自分の骨子だったのか、原点だったのか。何が異常で、どこが人とズレているのか。分からなくなってしまったことも数多くあります。


それでも、私は納得しています。カメレオンでいることに。

役者が衣装を纏い、登場人物の立ち居振る舞いを模倣して、舞台上で「役」として話し行動するように。
私もこの世界という舞台で「一般的人間」を演じている。そういう話である。

舞台上で人間のように振る舞えて、それを好きだと言ってくれるたくさんの人間と交歓できて、私は幸せ者です。本当に感謝しかありません。


中学の誕生日プレゼントに母がつけてくれていた冊子。そこに母が手紙を添えてくれていました。その一節にこうあります。


「人に合わせたいと思えるようになったね。そんなお友達に出会えて本当に良かったね。」


お母さん、本当に良かったよ。そんな友達が、ありがたいことにあの時よりたくさんできました。

カメレオンの私を愛してくれる人もいます。彼も彼で変な人だけれど。


これからも、私は愛する人間に擬態して、今の楽しい人生という舞台から引きずり下ろされぬように祈りながら、幸せに生きていきたいです。

気に入っていただけたらサポートもぜひ。私がめちゃくちゃ喜びます。いただいたお気持ちは自分の教養を広げるのに使わせていただきます。