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日本人の「無宗教」

日本では、あなたの宗教は、と聞かれると、多くの人が「無宗教です」と答える。わたしも以前はそうだった。

でもこの「無宗教」って、なんなんだろうか。

よく言われることだけど、日本は信仰という面で、とても特殊な場所だ。

たいていの人が葬式にはお坊さんを呼んでお経をあげてもらい、戒名をもらうし、正月には神社仏閣にゾロゾロと初詣に行くし、七五三や受験のときには神社でお守りをもらったりする。

結婚式にはそれまで行ったこともなかった神社で祝詞をあげてもらったり、聖書なんか読んだことなくてもキリスト教の牧師さんに祝福してもらう。

大多数の日本人にとって、行事や人生の節目で行く神社や教会やお寺は、いってみれば、役所や劇場なんかと同じような性格の場所なのではないだろうか。

中のしくみがどうなっているのかはあんまりよくわからないけれど、しきたりにのっとって作法どおりに敬意を示すことで、何かしらの保証を得たような気がする、というような人が多いのではないか。

初詣に行って柏手を打ったり、お寺で手を合わせることには躊躇がなくても、神は存在するのか?なんて真面目に考えたり、神様との間に個人的関係を築く機会をもつ人は少ないのではないかと思う。みんな人生に起こることで充分忙しいから。

もちろん深い信仰を持って生活している人もいるけれど、日本では一般に「宗教」という言葉はネガティブな意味あいで使われることのほうが多いのじゃないかと感じる。

なにかを頭から信じることは、たしかに危ないし怖いことだ。

とくにオウム事件以降、「信じること」に対して、日本人はさらに警戒するようになったのかもしれない。

でも、「信じること」や「祈り」をむやみに気味悪がってシャットアウトしてしまい、それについて考えようとしないのは、人生においてとんでもなくもったいない態度だとわたしは思う。

信仰は必ずしも「盲信」とは限らないし、必ずしも科学や理性の否定につながるわけでもない。
精神のはたらきの中でも上質な体験をもたらしてくれるものだ。

…ということを、わたしは30歳をすぎてから知ったのだけど。

無数の人びとが宗教と信仰について考えることに人生を費やしてきたので、わたしたちの前には神や仏と人間の間の、壮大な歴史がある。

その財産に触れずに人生を終えてしまうのはあまりにも残念だと思う。

信仰は知識ではなくて、体験だ。それも、自分の存在の底に触れざるを得ない、揺さぶりをかけられる体験。それに触れるにはある程度の覚悟と意思が必要だけれど、見返りは充分にある。

もし、昔のわたしのように、なにそれこわいと脊髄反射的に拒否したり、信仰を持っている人をちょっとバカにしちゃったりしている人がいるなら、その人は間違いなく自分がバカにしているものが何だか知らない。

「神を信じよ」というのはわたしの役目ではないと思うけれど、信じることってこわいと思っている人には、せめてその本質が何なのかをもっと近くで見てみて、敬意を持ってはどうでしょうか、と提案したい。







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