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歳を重ねるということ

 いつからか歳をとるのが怖くなった。ほんの少し前には年齢よりも先を歩いていると思っていたのに、今はそうは思えない。私たちは誰しも関係のなかで生きている。だから、私が歳をとるのが怖くなったのは他者や社会が求める規範に対して上手く応えられないからではなくてみずから立てた規範におくれをとっているからだといってみたとしても、それがほんとうのことなのかはわからない。ただそう信じたいだけなのかもしれない。

 私が怖れを抱くときに問題にしているのは、やはり可能性なのではないかと思う。他者にはいつからだって始められるといっておきながら、私自身はそうは思えていないのだから始末に負えない。そう信じることになにも疑いをもたなかった私はもういないのだろうか? わからない。私はこれまでをなにひとつ後悔していないけれど、それはけっしてこれまでのすべてを肯定しているということではなかった。

 たとえば本で「行為のレベルではなくて存在のレベルで人間をみつめること」というようなことが書いてあった。していることや成し遂げたことという行為のレベルで人間をみるのではなくて、ただ存在しているという事実に重きをおいてみることといったような意味だったと思う。たしかにそのとおりだと思う。けれど一方で、綺麗事だとも思う。誰しも正しいことばかりをしては生きられない。それは正しいことばかりをいう人がいたとして、なのにその人の言葉からはなにも感興を覚えないのに似ているかもしれない。ただ存在しているだけで価値がある。私もそう思う。親しい人がなにもできなかったとしても、私はその人が存在しているだけでありがたいと思うだろう。反対に、私自身がなにもできない状態で、それでも他者に存在しているだけでいいといわれてもけっして心からそう思うことはできないでいた。

 獲得するだけが人生ではない。喪失があり、停滞もある。もしかしたらこれからの私は、自分が守りたいものをなにひとつ守れないかもしれない。それはひとえに私に力がないからであり、力を得ようとする意志はあってもそれを行動に移せる力が欠如しているからなのだろう。そうしたとき、尊厳も矜恃もなく、ただ歳を重ねていくことに耐えられるのだろうか? いや、こういう問い方は間違っているかもしれない。私にはまだわからないことがたくさんある。今はまだ無理をするときではない。


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