留まり続けるタフさを


もやもやした状態、すっきりしない状態というのを好む人はいないだろう。
誰だってすっきりしたいし、もやもやした状態から早く抜け出したいと望むのは当たり前だ。
そんな状態はとても居心地が悪いし気持ち悪い。
でも僕は、そんな状態に留まり続けることができるタフさがとても大切だと考えている。

毎日を生きていると、実に多くのもやもやしたことに直面する。
え?と首を傾げている間に次のもやもやがやってくる。
そんなことを繰り返しているうちに、もやもやはイライラに変わる。
耐えられなくなる。
スッキリしたくなる。全てをスッキリ解消したくなる。
もやもやの理由を解明して理解したくなる。
正解がほしくなる。
そんな時、誰かが目の前に現れて全てを明確に明快に一言で説明してくれた!

こういう状態が一番危険だと僕は思っている。
それは深い深い落とし穴だと思っている。

僕は以前から何度も言っているが、即断即決する人やなんでも断言する人が嫌いだ。断定的で、議論を一言で終わらせるような物言いをする人が嫌いだ。
そういう人の言葉からは絶えず距離を置こうとしている。
僕がその人がどんなことを考えていて、どんな生き方や考え方をしている人なのかを十分に知っているのなら、その言葉や意見に耳を傾けようと思う。
それでもまずは耳を傾けるのであって、考えなしにすぐに受け入れることはしたくない。
どうしてか。
それをしてしまえば最終的には自分は何も考えない人間になってしまうと思うからだ。そういう弱さが自分にはあると思うからだ。
すっきりするために誰かに答えを求める姿勢や、もやもやを解消するために誰かの答えを求める態度では、答えを示してくれる人に従うだけの人間になってしまう。
それは嫌だ。

自分で考え自分で問いをもつという態度は絶対に無くしてはいけない。
それがとても難しいことは知っている。
もやもやしている状態。答えがわからない状態。自分で考えなければならない状態。自分で行動して何かを見つけなければならない状態。
それはとてもきつい。
そんなことよりも誰かが考えてくれて、答えを出してくれて、全て説明してくれる方が楽に決まっている。

でも、僕はその楽な方に流れたくないない。
自分で問いを持てない人間、自分で考えない人間になることは嫌だ。
それは自分という存在を失うように思う。
自分で考えないという楽をすることで自分という存在を失うのは嫌だ。

代弁者というべき存在や、人々を導く存在。
強い意志や言葉をもって人々に道を指し示す存在が必要な時もある。
それは否定しない。
でも本当に人を導いていく存在というのは、強い断定の言葉や答えで人を喜ばせるのではなく、人々を考えさせ行動させる勇気を与える人のことをいうのだ。

僕が否定するのは、自分で考えない態度や自分で問いを持たないでただ従うだけの態度でいることだ。それは自分の尊厳や生命をじわじわと蝕む。
そんな空っぽの抜け殻のような人生を送ることはしたくない。

だから僕はもやもやしたスッキリしない状態にあっても耐えられるタフさを持ちたい。よくわからないことに安易に結論を出さず、わからないままでも考え続けるタフさを持ちたい。

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