意味を求める無意味さ
何か面白そうなことを見つける。
何かやってみたいと思う。
どこかへ行ってみたいと思う。
誰かに会ってみたいと思う。
ワクワクする気持ちが盛り上がる。
そんな時、「それに意味はあるのか?」という言葉がその全てを矮小化する。
その全てをぶち壊す。
意味が必要なのか?無駄ならやらないのか?
効率という言葉が嫌だと何度も書いているが改めて言おう。
効率という言葉を、瑣末な雑事や事務仕事以外に持ち込まれることは本当に嫌だ。
生きること、感じること、受け止めること、表現すること、創作することに効率という言葉を持ち込むな。絶対に。
意味とはなんだろう?
何か利益を生むことか?
それによって良いことが起きることか?
いつまでにそれが起きれば意味があることになるのだ?
その瞬間か?今週中か?来月までにか?
意味があるかないか。
それを行動するかどうかの基準にしていたら、
今いる場所からは一歩も外には出られないだろう。
なんか面白そうだ。やってみたい。行ってみたい。会ってみたい。
それだけで行動の動機としては十分。
意味がないかもしれない。
実現の可能性は低いと思う。
失敗するかもしれない。無駄になるかもしれない。
そういう分析をする視点は大切だが、それが「面白そうだ」という気持ちよりも常に勝って常に行動の基準になるのなら、自分はどんどん小さくなって一日中座っているだけか同じ場所を行き来するだけの毎日になる。
一歩進むだけで最初の場所から見えなかった景色が見えることがある。
そんな楽しいことがそこら中に転がっている。
イントロやギターソロを跳ばして曲を聴く人が増えているというような記事を読んだ。映画は早送りで見る。小説は要約だけ知ればいい。
そんな考えをする人も多いと聞いた。
時間を無駄にしたくないから、ということみたいだけど、そういう人にとっては音楽を聴くことや映画を見ることや本を読むことは、そもそも時間の無駄だから止めればいいのに。その方が効率がいい。
情報としてとりあえず知っておきたいから、ということなら、そういう人にはそんな情報は無意味だから吸収しないほうが効率がいい。
そんな貧乏くさい考え方をしているくせに情報などには欲張りで、消化し切れるはずもない余計な情報をかき集めて「効率よく」生きているつもりなのだろうか。
色々と狂っていることが現実に起きていて面白い。
僕はとりあえずもっともっと長いイントロの曲やギターソロがたくさん入った音楽を作りたくなった。
国家レベルで貧しくなっていて、食糧もエネルギーも供給が怪しくなりそうな時に、国民を援助するどころか首相が笑顔で「もっと投資しましょう!」と、自己責任の自助を呼びかけるような国だ。
何も信用できなくなって当然ではある。
本当に冗談みたいなことばかり起きている。
後世の笑い話くらいにはなりそうだが、今は笑えない。
失敗への恐れとか、人生の不安とか、集団からのけものにされる恐怖とか、自分だけ損することへの恐れとか、そういうことがこの社会に充満している。
不安と不信で病んでしまう人々。
面白いそうだ。楽しそうだ。やってみたい。やってみよう。
人生を切り開くのは結局それだけだと思う。
心配や不安に恐れおののいても、どうせ事が起きる時は起きる。
そもそも人生にはそんなに大した意味はないのだから。
意味など考えても無意味だよ。
(2022.5.22)
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