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「豊かさ」「価値」とか、そういう言葉が嫌いな理由

 
「本当に”豊かな"時間で」
「〜は、”学び"になりました」
「〜の”価値"があって」

全てのメッセージにおいてではないけど、こういう言葉を自分が使おうとする時、読んだ記事で目にする時、嫌だというか、ああ残念だ、と思うことが多かったな

上以外にも極力使いたくない単語があったりする、そんな時はその言葉の類義語を調べて書き直したりしてさ。ただ、「残念だな」と思うのはとても感覚的なものだと思っていたし、別にこうして文章にしようと考えるほどでもなかったけど、今日その理由が1つ分かったから書こうと思うよ


「概念が生きた経験を矮小化させる」

という言葉に出会った。「自分の仕事をつくる」というパタゴニア、IDEOとはじめとした、モノコトづくりに関わる人々の働き方が書かれた本で、この言葉に出会った章では、とある服飾デザイナーのアトリエにあった世界中から集められた布や糸にフォーカスが当てられていてね

素人の目には同じ色に見えかねない繊細な色味を見分けている彼女たちの在り方から、上の言葉が著者から発せられていた。


コンピューターの画面の表現能力は、1670万色、パワトーンという色見本帳は約1100色。むろん世界は1670万色でも1100色でもない。あくまで工場とやりとりするための記号、省略化された情報に過ぎない。しかし、その見本帳によって私たちの世界観が狭まっていないだろうか。

今日の夕焼けが綺麗だな、と写真を撮って送っても本人が抱いた本物の感動には勝らず、絵で伝えようとすれば「〇〇色」の中から近しい色を選び、出来上がったものはやっぱりちょっと違う、みたいな



そんなこんなで、これは日頃言葉に対して抱いている感情の的を得てくれているなと思ったんだ、それは、

豊かな、価値、学び、とかは特に、相手への感謝やポジティブな感情を伝える時に使おうとするけど、そういう言葉にした瞬間、急に薄っぺらく感じるんだ

例えば、その場所に行こうと思った自分の内から沸いたきっかけ、その場所に行って五感で感じた景色、生まれた感情、そこで出会った人と話した聞いた言葉から考えた自分の気持ち、今この文書に書き起こせない「何か」と、そういうのがとりとめもなく拡がっているはずで、

それが、「本当に豊かな時間でした」の一言に省略されることに、すごく勿体無い、残念、違うんだよ本当はね悔しい、と思うんだ。

勿論、他に言い表わせる言葉が見つからなかったり、時間がなくて連絡をしなければいけない時とか、疲れていてそこまで気を割けない時とか、半ばしょうがなくその言葉を使う時もあるけど


あくまで言葉は記号で、その裏には生きた感覚や経験があるのだ、それを伝えるために使っているんだ、ということを理解した上で、今日からこの言葉たちに触れると、見えるものが変わってくるような気がしたよ、そんなに嫌じゃないな

だし、本当に伝えたいのであれば、きっと同じ時間を過ごして体験を共有することに尽きるのだろうな。

今日は、本をひたすら読みながら、そんなことを考えられた
とっても豊かな時間でした。

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