あり得ない日常#30
歳を無駄にとると、前に自分が何を言ったのか、質とは何かすら、よく分からなくなるらしい。
そのくせ無理に周囲と関わろうとするから厄介だ。
何がそうさせるのだろうか。
怖い怖い先達がいなくなり、まるでそれは糸の切れた凧、無駄に肥大化したプライドが服を着て宙を舞っているようである。
いつどこに落ちてくるかわからないから迷惑、目障りだ。
肝心なものもそれほど大きいわけがなく、大きくもならなかった役立たずが、まるで電球が切れる直前のように、やたら元気である。
あと数年もすればいなくなるだろうと、適当に陰で笑われていることにさっぱり気づいていない。
ある意味幸せなことだ。
大きくもなく、大したものでもないから、さぞよく燃えるだろう。
今日も日本は間違いなく平和である。
例の先輩とのペアはめでたく卒業、一人で拠点を任せられることが知らされて以来、外は雨でも心は晴れやかな日々となるはずだったのだが、その前に地方に数か月行って欲しいと言われてしまった。
引っ越すわけにもいかないから、しばらくはホテル暮らし。一度やってみたかった薔薇色の滞在生活、とはいかなかった。
ホテルと言っても、ビジネスホテルのワンルーム。
食事はつかない寝泊まり専用のきわめて質素な滞在生活。
これはこれで非日常なのだが、日当たりが悪いせいかどうもカビ臭くて気になる。
しかも、その赴任先は古い雑居ビルで、エレベーターに乗るのも怖い。
雑居ビルだから、他の階の人達もエレベーターに乗り合わせる。
どうかしたら住んでいる人もいるかもしれないな。
このビルは携帯電話の基地局にもなっていて、その光回線に便乗できるから、地方拠点として十分な創業間もなく設けた施設だと聞いている。
しかし、当時はベーシックインカムなど導入されていなかったし、古いサーバーで構成していることもあって、技術者も年季が入っている。
来てわかった。
これも見ておけということだ。
見る人が見れば懐かしい物が、段ボールに無造作に詰め込まれてそこらじゅうに転がっている。
これはすごい。
そんな新鮮な気持ちで乗り切ろうと自分に言い聞かせていたのに、赴任して早速事件が起こった。
軽く挨拶して乗り合わせた年配の人が、どうやらここのセンター長だったらしく、その人が言うには挨拶が無かったのだという。
住人かと思っていた。
見た目からして、昔の制度でいうところの定年間際の世代だろう。
なるほど、髪の毛は後頭部にかけて前線が後退していくらしい。なんとか正面から頭頂部の毛がうっすら耐えているのが見える。
勉強になるな。
センター長とは言え、十数人の小さな拠点なので比べ物にならない。
とはいえ、創業当時から居るような人物なので、そこは敬意を払う。その頃にはもうすっかり定着していたAIのおかげで、ほとんど仲間同士で雑談を散らかしてきただけだと聞いているが。
右も左もわからない、ただただ無知な人間のままにこんな場所に飛び込めば、それはそれは髪、いや神を前にした無力な存在のように、その教えを乞うたかもしれない。
ただ、わたしはまだ若いとはいえそれなりに技術と知識を身に着け、さらには磨いてきたという自負がある。
隣のゆみさんじゃないが、技術投稿ウェブサイトにちょっとした寄稿もしており、なんなら少しだが名が通っている。
それが何よりの自信になっているから揺るがない。わたしの自信の根拠は、この人たちとはまったく別のところにあるわけだ。
ただ一方的に、自分に聞こえなかった、挨拶が無かったと決めつけているだけの年寄りに、こんなにも怒られている。
そもそも何の話をしているんだろう。
何をこんなに揉める必要があるんだろう。
ふと、冷静にそんな考えがよぎると、この状況がおかしくて可笑しくて仕方がない。
ぷっと思わず笑ってしまった。あーあ。
茹でダコのように頭を真っ赤にしながら怒るその人は、手をあげて来そうな勢いだったので、わたしは思わず左手に持っていた雨傘を竹刀のように構えた。
周囲の人たちがセンター長をかばうように止めに入る。
怒っているのは見た目で分かるが、いまいち声が小さくて迫力が無い。
つまり怖くはない。
何なら、一発どこぞに差し込んでやろうかと思った。
じっと間合いを詰めると、動揺するのが解る。
一人がどこかに電話を掛けようとしたところで、わたしはふっと笑みを浮かべると、その場を後にした。
女一人相手に情けない。
とはいえ、冷静に今考えると、襲われなくてよかった。
いつもより早い心臓の鼓動を感じながら、ホテルの荷物を引き上げると、新幹線に乗るために駅へ向かう。
あの機材たちには興味はあるが、こんな街にはいたくない。
もうそろそろ報告されているだろう。
さあて、どうしたもんかな。
途中の観光地にでも余裕をかまして寄ってやろうかとも思ったが、そんな気分で巡っても、良い記憶として何も残らないだろう。
悔しいが、直接社長がいる事務所に出向いてやろうと、携帯端末の電源を切ってぼんやり。
飛行機よりは時間がかかる新幹線の窓に、次から次へと流れる景色を眺めながら、考えをまとめるのだった。
お土産を買うのを忘れた。
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