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好きの反対はやっぱり無関心

ここ数日「怒り」について考えていた所、ちょうどネタが出来たので書いていこうと思う。

好きなVTuberのチャンネルにアンチコメントが付いていた。
私は普段そんなに怒るタイプではないが、それを見た時自分の中で感情が動いてイラッとするのがわかった。
「全部事細かく論破してやろうかな…」と思った所で気付いた。

私は今、自分の中に人を入れている!

確かにさっき感情が動いた!これが自分に人を入れているという事なのか!と、初めてはっきりと理解できた。ちょっと感動すら覚えた。

怒りはパワーが大きい分、感情が動いた時もわかりやすいのかもしれない。
私は「この人を私の中にいれるのをやめます」と唱えながら、脳内で体をシャボン玉で包んで自分の周りに枠を作った。
すると、怒りがスーッと消えていくのがわかった。戦いの土俵に上がる気もなくなったのでブロックだけして終わらせた。

冷静になったので、この経験を神様の勉強に活かす為に、どの部分が反応して自分が相手を入れてしまったのか考える事にした。

まず、私は否定的意見や疑問を書き込む際は自分が確認できる限り全ての動画やコンテンツに触れてから書き込むようにしている。それが礼儀だと思っているからだ。(それ自体も、人に気を遣わなければいけないという余計な思い込みなのかもしれない)
だから、それをしない人を見ると苛つくという事がわかった。
人は人、自分は自分。自分の信念は人に押し付けてはいけない。

また、一口にアンチコメントと言っても愛がある、もしくはちゃんと理屈が通っているものならなんとも思わないという事がわかった。
愛のある怒りは人を傷つけない。相手に対しての愛のない、自分の意見を一方的に押し付けるだけの怒りは人を傷つける。

この2つが思い浮かんだ。
私は今後そういう人を見ても「この人全然動画見てないんだろうな。みんな忙しいんだし全部見てる訳じゃないもんな」と思ってスルーするだろう。
本日も学びがあってよかった。

ただ、アンチと言うと聞こえは悪いが、嫌いという感情はよくないものではない。
好きの反対は無関心と昔からよく言われているが、これはその通りだと思う。
本当に心に何も反応しないなら無関心で通り過ぎるだけ。この世界には悪魔的な魅力溢れるものがたくさんあるのだから、すぐそちらに行けばいい。

最初神様を疑いに疑った末に神様大好きになった鬼もいるのだ。
心が反応するのなら、それだけ好きになる素質もあるという事なのかもしれない。

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