祇園祭発祥の地であり、龍が住む神泉苑
神泉苑は、京都市中京区門前町にある東寺真言宗の寺院です。
そもそもは平安京大内裏に接して造営された禁苑、つまり天皇のための庭園でした。
そう、ここはかつて平安京の一部だったのです。
今年の春に、奈良と京都の京(宮殿)を巡る旅をしてきまして、その時に行きました。
ちなみに平安京は史跡的に残っているわけではないのです。
たまに、平安神宮を平安京だと思っている方がいますが、模して作っただけで、あの場所に平安京があったわけではなく、つまり跡地や遺構ではないのです。
実は学生の頃に私は、平安神宮が「平安京」で、伊勢神宮みたいに建て直しながらも今に残るのだと勘違いしていたので(笑)
こちらが平安神宮↓
2022年に平安神宮を訪れた際のレポートです↑
現在平安京の建物として残っている遺構はありませんが、かつて平安京があった位置を示すものはいくつも残っています。
その一つ、平安京の庭園の遺構がこの神泉苑です。
ちなみに平安京ってどこにあったの?と思った方のために下の地図を見てください。
これが現在の地図と平安京のあった場所を重ねたものになります。
平安京には、その中心を貫く幹線道路となる「朱雀大路」があり、朱雀大路の北のはじまりの朱雀門と、終わりの羅生門がありました。
羅生門はあの、芥川龍之介さんが書いた「羅生門」です。
門の名前になっている朱雀は「南を守る霊獣」なのに、なぜ大路の北にあるの?と思ったのですが。
実は朱雀門は「大内裏(簡単に言うなら天皇のいらっしゃる場所)」を囲む塀の最も南側に作られていたので、南を守る霊獣が置かれたと。
その最も南にあった朱雀門からさらに南に向かって道を作ったから、その道から見たら最も北になっちゃったのねと納得しまして(笑)
羅生門跡は、現在も東寺から少し歩いた場所にある公園に、石碑として残っています。
東寺は、平安京があった自体から今の場所に建っており、ここが平安京の端だったのだと感じることができます。
さてさて。肝心の神泉苑ですが。
こちらは、平安京のかつての庭園としての遺構です。
ここの当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ池を中心とした3万坪もある大庭園であったとあります。
めっちゃ広くないですか??
公式サイトによると、
とあります。
かなり広い池があり、お庭も当然広くて、山や森林、宮殿まであり、歴代の天皇が船を浮かべ遊宴に興じていたと記録に残っていて。
なんて雅なの~と、うっとりしてしまいます。
今はかなりこじんまりとして池といくつかのお社が建つのみですが。
この池は、かつてここにあった古京都湖の名残を庭園に整備したものと考えられています。
え?
京都の湖?
と思いませんでしたか?
実は大昔は京都のかなりの部分が湖だったのです。
京都だけではなく、奈良も大阪も、です。
それぞれ古奈良湖、古大阪湖と呼ばれます。
古い記述には、かつて京都は湖で、船岡山と双ヶ岡が、孤立丘陵として湖盆に島をなして浮かんでいた、などとあります。
あの、私が大好きな秦さんの古墳がある双ヶ岡はもともと湖の島だった(感動)。
↓大好きな双ヶ岡古墳のレポート(笑)
京都が湖だった話はまた改めてお伝えするとして。
神泉苑で最も有名なエピソードは、「空海が龍を呼んだ池」かな?
あの静御前もここで雨乞いの舞をしたとされます。
さらには、あの有名な祇園祭は、この神泉苑で行われた御霊会が始まりとされるのです。
平安時代あるあるですが。
疫病や地震などの災厄がおこるとその原因は御霊である。つまり何かしらの祟り的なものであるとされまして。
その霊を鎮めるために儀式を行うわけです。
それが「御霊会」
八坂神社で御霊会を行う際に、こちらの神泉苑に66本の鉾を建立し、八坂神社から神泉苑に神輿を送り、 天下泰平を祈り、これが祇園祭の起源となった、と。
そんな龍王様が住まわれる法成就池。
ここにかかる朱塗りの橋(法成橋)を、願いを渡って善女龍王社へ詣ると願いが叶うと言われているそうで。
この朱色の橋、渡ってしまいました。
善女龍王様、お願い聞いて、プリーズなのです😆
とにかく由緒ある素晴らしい場所なのにあまり人に知られていないことが残念です。
二条城のそばにあるので、こちらも足を運んでみてくださいね。
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