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脱稿と『面白さ』

久々に『脱稿』をした。半年ぶりくらいだろうか。
私は物書きなので気が向いたときにふらっと小説のようなものを書くことがある。
今回は好きな作品のスピンオフの二次創作小説を書いていた。もはや原作の影も形もないようなものが完成したが、二次創作なんてそんなものであると開き直る他ない。
私はあくまでも自分の妄想妄言を物語に起こしているだけだとない胸を張ろうとして、やっぱりやめておく。人の褌で相撲を取っている時点で胸を張るべきは私ではない。

とはいえ今回の執筆は少し手こずった。
当初5万字程度を想定していた物語が、いつの間にか10万字になっていて椅子の上からひっくり返った。
どうしてこんなことに。
原因を考えれば答えは明白なのだ。
要素の『詰め込みすぎ』これに尽きる。風呂敷を全世界規模に広げないでほしい。誰だこんな話を思いついたやつ。私以外にいるまい。
それならばなぜこの物語がここまで膨大に膨れ上がることを事前に予測できなかったのか。それこそ想像力の欠如である。もっと考えて物を語ってほしいところだ。

そもそもプロットを書かずに話を書き始めるのも良くない傾向だと思う。プロットを書いたところでプロット通りに話が進んだ試しがない。それでいいのかお前。
プロットをあきらめるな。プロットが泣いているぞ。
さぁ、戦うプロットの声が聞こえるか。などとレ・ミゼラブルを脳内で再生してみたりする。

私は誰かに乞われて物語を書くということもないし、それを望む人がどれほどいるのかも知らない。
自分が面白いと感じるものを面白いように書いているだけだ。面白おかしく生きている自覚はある。
物語を書くという行為も面白いからやっているだけだ。
プロットを半分しか書かないのも、全部書いたら面白くなくなるからだ。
脱稿をすると、その面白いが消えてしまう。さびしい。かなしい。
だからまた原稿をしたくなってしまう。これぞ永久機関。

全ては面白さ。面白さこそが正義。
自分の書く物語にそれくらいのことは思っていたいなという願望を抱いている。
実際はその面白さはいろんな外的要因によってくすんでいくし、思い通りの面白さにはいきつかないことの方が多いけれど。
そのくすみも含めて愛していければなと思う次第。

脱稿は『面白い』とのお別れであり
新たな『面白い』の始まりなのだ。

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