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茶友とアルゲリッチ

長年アルゲリッチのファンだというお茶の友人に連れられて、すみだトリフォニーホールへ。

叶恭子さんのようにグッドルッキングガイにお供をさせて鑑賞する予定がキャンセルになったそうで、無害そうな私ともう一人の茶友が同行の栄誉に預かった。ガイズには袖にされたのだろう。

そんな日もあるわ。そういう時のために私たちはいるのよ。

憧れのピアニストに会える喜びに華やぎ、彼女と共にあったような人生を振り返りつつ会場に向かう友人は、「希望」を体現する見本のようだった。

自分ではさすがに買わない2万円超えのGS席のうちの3000円分くらいはこの人の鑑賞代と考えてよい。思い出を語るだけで赤くなった顔を「ちょっとよく見せて」と覗き込んだ。「やだ、おばさんっやめて!」と言われても元は取りたい。おばさんで悪かったな。

開演時間を8分ほど過ぎた頃、想像よりずっと小柄なアルゲリッチがクレーメルと登場した。無限に湧き出てくるような隣からのハートマークを右半身に感じつつ拍手する。客席はそんな人たちで溢れていた。

ヴァインベルクのヴァイオリンソナタから。アルゲリッチの音はころころと転がるような弱音のバリエーションで構成されている。どのようなフレーズにも個性的な味付けがなされており、それらが全部楽譜に書いてあったらものすごく複雑な楽譜になるだろう。しかし実際は、数小節に渡るクレッシェンドがそっけなく書いてあるだけに違いない。

必ずあるはずの知的判断や根拠付けといったプロセスは、野性的な身体感覚で瞬時に行われているようで、本人の内側と音楽が結びつき、一体となっている。ただ全体に音が鼻詰まりのようにくぐもっていて、調律か席取りの位置のせいだろうかと考えた。私のところから左足は見えなかったが、弱音ペタルを踏んでいたかな、という部分もあった。

続くシューベルトを聴いてもクレーメルの凄さはイマイチ分からなかったのだが、アンコールのペルトの演奏の、小さな鳥の喉を鳴らすような掛け合いを、一生忘れないだろうと思った。続くピアソラにも心底しびれた。

休憩時間、二階の北斎カフェへ。ほの暗い会場でシャンパンで乾杯する二人の顔が生き生きと美しい。飲めない私は持ち込みのエビアン。

「やだあなた、クレーメルも知らないの?」そう、知らない。ヴァインベルクもフー・ツォンも知らないし、なんならイ長調とホ短調の違いも分からない。

どうやらクレーメルさんは若い頃はもっとアグレッシブな演奏をされる方だったのだそうが、枯れてきてまろやかになったのだそうだ。一方のアルゲリッチは枯れとはほど遠い。

私は80年代の録音がやや乱暴だったので食わず嫌いになってしまい、これまで一度もアルゲリッチを生で聴いたことがなかった。そう告げると「昔の録音技術はそうなのよ〜。それに彼女の表現はレコーディングでは掬いきれないわっ!」と友人は我がことのように自慢げだ。

なんか幸せな夜だな、と思う。

休憩後は、ヴァイオリン、ヴィオラとチェロのためのセレナーデから。N響奏者ということでベテラン感は十分だが、前半の迫力と比べると少し不安にはなる。

ベートーヴェンの4番のために再登場したアルゲリッチは、前半よりずっとオラオラしていた。マツコデラックスか虎か。もしや前半はクレーメルに合わせて抑えていただけなのではという予感が、一音目が鳴った瞬間確かなものとなった。「やってええんやったらやるから、付いてこいよ、お前ら!」という勢いで駆け抜ける。レディースの総長はこんな感じなのかも知れない。

こ、こんなに早い曲なんですか??私はその尖った表現と恐ろしいまでのテクニックに、心中ずっと爆笑していた。音も全くくぐもっていない。

弦たちもN響のプライドをかけて一瞬抗おうとしたが、力比べでは到底叶わないようだ。演奏後Twitterで、アルゲリッチとこの3人の奏者を龍と人間に例えていた人がいたが、言い得て妙だと思った。アンコールではもう一度三楽章を、さらに1.2倍速くらいで弾き、観客を沸かせた。

もう、JAZZも超えてロックだ。私にはWe will rock youを歌うフレディマーキュリーと何千という観客が見えた。YES,You rock me.

続く大林賞の授賞式での挨拶で声を聞いたとき、「この人は歳を取るのを止めたんだな」と思った。せいぜい40代に聞こえる声だ。光より早く進めば歳を取らないように、音楽へのエネルギーが年齢より早く進んでいるのだろう。あとは今日の弦の人たちのような若いエネルギーを吸っている可能性もある。私も早急にグッドルッキングガイを従えるべきだろうか。

しかし茶で会った友人たちとクラシックを鑑賞するのがこんなに楽しいと思わなかった。

一定の力量を超えるとそうする決まりでもあるのか、茶人の多くはおねぇ言葉だ。そんな彼ときゃいきゃい言いながら鑑賞するのはとても楽しかった。

下手寄りではあるが前から2番目に陣取った我々の席に、アルゲリッチ様は去り際に何度か視線を送ってくださった。「好きなのね、私たちのことが好きなのね!」「バカ、この辺の人みんなそう思ってるわよ!」「思いが伝わるのよ、きっと!」ジャニーズのライブに来たおばさんもこんな感じだろう。

きちっと律儀に譜をめくる譜めくりの人はが別の茶友に似ており、我々は勝手に「田中(仮名)さん」と呼んだ。田中さん、頑張ってる!えらいわ!
・・田中さんも迷惑千万だ。

私とともにガイの代わりに呼ばれた、いつも彼のお茶席を控えめに支えている女性と普段できない話ができたのも面白かった。

あと20年くらい元気に来日してくれそうだが、いつも先のことは分からない。でもぜひ次回も、彼らとともに鑑賞したい。できればグッドルッキングガイも。