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茶箱を作ろう(2)古裂と籠

茶箱の道具を何も入手しないまま、まず仕覆づくりを習いたいと考えた。そこで思い浮かんだのは、昨年の恵観山荘のお茶会で同席したご婦人だった。白髪にワンピースなのに、少女のような佇まいとお声。ワンピースの品物の良さと色合わせの妙、ご本人との調和のセンスだけで、布を扱う人だと分かる。聞けばその日のご亭主の仕覆の先生だと言う。

この日のご亭主は、私に様々なことを教えてくれるお茶人だ。視聴者はおろか、やっている本人たちも忘れかけている、菓子ましチャンネルのセンターを張っている。ここではハム先生と呼ぼう。この呼び名はお名前の一部の「公」に由来する。

先の休日、ハム先生とともに訪れた仕覆の先生のご自宅は遠かった。電車を二回乗り換え、タクシーに乗る。途中お菓子を買ってもらい、遠足気分を高めた。

私が布しか持って来ていないことを告げると、ハム先生はあきれた。
「あんた茶箱作りたいって言ってたじゃない」
ハム先生も茶人の絶対法則にのっとり、おねえ言葉なのだ。
「それなら茶入れくらい持ってきなさいよ」
そうだった。なぜ茶箱を作りたいのに仕覆から入ろうとしたんだろう。

我ながら不思議だが、今日は初回ということで、まずはまっすぐ四角に縫えばよい袱紗を習うことにした。

緑に溢れた庭の中の一軒家に通され、様々な色の糸や道具が並ぶ机に向かい、小麦粉で練った糊を使ったり、返し口の糸の止め方等を教えていただきながら袱紗を縫う。ここに通ってもう5年になるというハム先生は、向かいで茶碗の仕覆と格闘している。

たくさんの糸

時間が余ったので、もう一枚縫うことにした。

「どの布がいいかしら」と先生が古い箪笥の引き出しを開けると、そこは布の宝庫だった。一番下は和物、二番目はフランス物、一番上がインド・ペルシャ物だ。しかも仕覆に使えそうなものばかりが厳選されている。そうか、布はここにあったのか。大江戸骨董市やちんぎれやまで行かずとも、ここにおおむね揃っているのか。私は感動した。

和物コレクションからクールな市松模様を見つけ、もう一枚の袱紗を作った。先ほどの綿の布より厚く、縫うのがずっと難しい。こうした布による扱いの違いを知ることも大切だ。

古袱紗を2枚作りました

なかなかうまくできたのではないか。「これを夫に売りつけて、茶箱の費用を捻出しよう」と言うと、「こういうのがあった方がいいものに見えるから」と先生が桐箱を持って来てくださった。

縫いすがら、「こういう茶箱が作りたいんです」とご相談した。私はコロナ禍でWebで見たアトリエシムラのシリーズが忘れられなかった。下が籠になっていて、上が布のタイプが作りたい。茶箱というよりも茶籠というのかな。

アトリエシムラのkras

https://discoverjapan-web.com/article/45570より)

お茶のお稽古の時の茶箱の中は、かなり隙間がある。野点点前はあるが、実際は茶室内での点前を想定しているのだろう。私は小さく軽く、バッグに入れて少々手荒に持ち運んでも支障のないような物が欲しいのだ。

そしてフランスのどっかや有楽町で、道すがらレバノン人ピアニストにばったり会った時などに、「やあ、お茶しない?」と声をかけられるような物を必要としているのです。

「設定が細かい」とハム先生が呟く。

「ちょっと待ってね」と先生は奥の部屋から、古い籠を持ってきてくださった。古いルソン籠で、もとは対になる本体があったが、蓋だけが残っていたのだそう。濡らした布で拭くと、籠はつやつやとした茶色になった。

お弁当箱かなにかだったのか、両端に耳が付いている。ここに紐を通せば、ポシェットのように斜め掛けして、持ち歩くこともできるではないか!着物に茶籠を引っかけ、元気に町を歩く自分が眼に浮かぶ。

先生に譲っていただいたルソン籠

「こんな古いもので良ければ差し上げますけど」というお言葉に有難く従い、レバノン人ということはやはりペルシャの布かしら、でもパリに長くいたからフランスのも・・と先生と一緒に布コレクションを見ながら想像を膨らませた。ハム先生も傍らで乙女のようにときめき、悶絶している。

これで自ずと茶碗や道具のサイズも決まる。長く頓挫した茶箱づくりがようやく動き出したようだ。私がこの日、布だけを持ってここを訪れたことも、この籠に出会うためだったのかも知れない。

「いいわねぇ。茶箱は大人のおもちゃ箱だから」と先生が歌うようにおっしゃった。