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おまつりの夜

 立ち並ぶ屋台と、宵に輝く燈火に永遠を感じた子供の頃。父の背中におんぶされたまま、「おまつりの夜」はずっと続くと信じていた。今では、そんな記憶さえ確かなものではないのに。おまつりの夜は、暗闇が怖くない唯一の夜だった。

 たまに暗闇が少し怖い。私が日常に死を感じるのは映画館の暗闇だ。シアター全体が暗くなる瞬間に非日常がぽっと顔を出す。映画を観るときは違う世界に行くのだから、一度自分の人生が終わったような気がするのかもしれない。そういうわけで、私は暗闇が怖い。今でも暗闇が怖いときは、テレビをつけたままベッドに横たわる。ブラウン管の中の海外ドラマの世界は私を裏切らない。気が付くと眠りについている。

 祖父母を訪ねるのが怖かった時期があった。身近に死という暗闇を感じてしまうから。会えて嬉しいはずなのに、嫌なくらい今まで積み重なってきた生と近づく死の気配をたっぷりと感じずにはいられないのだ。死を避けられない事実だと頭で理解してからは、寧ろ祖父母に生を見出すようになった。私より何年も長く生きている先人たちとして敬意を感じる。老いていくことは悪いことではない。人間は誰も、どの瞬間も老いているのだから。

 日常が生きるということ。少しずつ変化していく。愛とか生の喜びとか実感ないかもしれないけれど、生きている日々がそのすべて。個体であるからこそ、終わりがあるからこそ美しい。
 でも、頭ではわかっていても、そんな綺麗ごとばかりを納得できる毎日なはずないじゃないか。だからこそ、わたしは、咆哮している。

 春夏秋冬。はる。なつ。あき。ふゆ。季節は巡り、螺旋階段を上るように年を重ねていく。それぞれ確実に違う階段で、でも上っているとも限らない。暗闇に包まれるその瞬間まで、あなたもわたしも、みんな階段を昇降する。下がっていても上がっていても確実に前には進んでいる。そうやって少しずつ老いていくのが日常であり、その連続が人生だ。

 私は生まれたから今ここに存在している。そして、生まれた時から死ぬことは決まっている。考え出すと果てしない銀河系の広さや歴史の始まり、人類の誕生などすべてが偶然の出来事だとしても、とてつもなく小さいが確かに世界の一部である私。バタフライエフェクトの産物とも言える。そう思うと少し気が遠くなる。

 生きていることは死ぬことと同一。では死が訪れるまでにやりたいことをやって、愛したいものを愛するべき。暗闇に包まれるその瞬間は、もしかしたら花火がぱっと咲くかもしれない。

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