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あまりに過剰すぎる「自意識過剰」


今夜、ほぼ初めて先輩に飲みに連れて行ってもらった。
そこで「酒回ってると調子いいね」と言われた。 

これは言外に「酒回ってないときはつまらない」と言われたのと同じだ、と私は思った。

別にひねくれて卑屈になっているわけではない。
確かに私はひねくれた卑屈人間だけれども。
しかし、職場での私がつまらないことなど私が重々知っていた。

新人としては、何も悪いことはしていない。
新人らしい、謙虚に、粛々と、無難に、仕事をこなしている。

しかし、それがつまらないのだ。

「私」が垣間見えるような言動が、そこにはない。
もともと私に分かりやすくキャッチーなキャラなんてないから、私を伝えるというのはそもそも難しいことではあるのだけれど。
(ちなみに「コミュ障」「社会不適合者」というキャラは、社会では(というかうちの会社では)個性ではなく完治されるべき障害として認知されるので言いにくい)(と、私が勝手に思い込んでいるだけである)

先月異動した先輩は、担当が私に代わることになる作家さんに「次の担当さんはどんな人ですか?」と聞かれて、「普通」と答えたそうだ。
それを作家さん本人から聞いて、私は心の中で泣いた。

この世の中で、「普通」とは「孤独」と同義である。
この時代、「普通コンプレックス」に悩まされている若者はきっと多いだろう。
メインストリームという中心文化が消えたことにより、この世には中心の欠けた点在するサブカル文化だけが残った。

分かりやすく言えば、TVという中央集権が崩壊し、私たちは何かに対する「好き」をそのまま自らのアイデンティティ化し、そして同時にそのアイデンティティをもとにグループを形成するようになった。
「同担拒否」なんてことをしているのは旧時代のオタクだけである(要出典)。
今は「推し」という共通言語をよすがに、人が自分の居場所を見つける時代なのである。

そのなかで、「普通」=「何かに対する特筆すべき熱烈な愛のない人」は、居場所を失う。
もはや教室で昨日のTV番組の話で盛り上がることも、雑誌を回し読みすることもない。各々がそれぞれの媒体で好みのコンテンツを楽しみ、同じコンテンツが好きなもの同士でなんとなくグループを形成していく。
「推し」はアイデンティティだけでなく、コミュニティ形成にまで影響を与えるようになった。


・・・さて、大幅に話が逸れた。
長らくちゃんとした記事を書いていないと、書きたかった別の持論が関係ないnoteを書いているときに勝手に顔を出す。不法侵入はやめてほしい。

話を戻すと、私が居場所のない、キャラのない、無個性な人間だということだ。
酒がめちゃ好きな明るい陽キャでもなければ、グッズを買いあさるような「推し」がいるオタクでもない。自信を持って語れるほど詳しい分野もなく、ただただちょっと本が好きな普通の人だ。その「本が好き」というのも、出版社の中では自分の上しかおらず、ほぼ無効化される個性である。

しかし、こんなけ話しておいてあれだが、今回の話は私の無個性についてではない。私の「自意識」の話であり、「理性」の話であり、結局は「自己愛」の話である。


私は自分のことを無個性だと思っている。
しかし、だからといって、何の語る余地もない、面白みのまったくない人間だとまでは思っていない(実際くそつまらない人間ではあるのだが、少なくとも面接を通過しただけの何かはあったはずである)。
それに、こうして徒然に書いてきたnoteのような文章も、それなりに(まあ人並みよりちょっと上くらいには)面白いものを書いてきたとも思っている。(ここで私の自意識が働きまくっていることは、読んでいる方からも一目瞭然だろうな)

しかし、そんな私の控えめな(傲慢)自己評価よりもさらに面白くない人間に、職場での私はなってしまっている。
これはなぜか?

それは、あまりに過剰な自意識過剰がありすぎるからである。

「私の言動を他者がどう思うのか?」というメタ的な思考に、私は人の100倍脳のエネルギーを費やしている。
このくそ無駄に疲れる状態を私は「目を増やす」と呼んでいる。
その目とは、「私をまなざす目」であり、話している相手の目に取り付けるものである。

簡単に言えば、私はだれかと話すとき、私のふたつの目で相手を見ながら、同時に相手のふたつの目にもハッキングして、私を見ているのである。

ここで「相手から見て最高に光り輝いた俺がまぶしく映ってるぜ」と思えるポジティブバカなら、何もない。しかしそんな馬鹿はわざわざ目を増やさない。
なぜ目を増やすのか?それは自分が下手なことをしていないか、嫌われないか、それを恐れているからである。

これで、簡単に人は個性を殺すことができる。
この恐怖が強いと、「とにかく無難なことを言えば間違いない」と消去法的に考えてしまい、正しいこと以外言えなくなる。正しいこと以外言わない奴なんて逆に嫌われるという事実を知っていながら。

私はいつのまにかこの恐怖にひどく囚われるようになってしまった。
顕著な例だと、些細なことで先輩に何か質問をしようとして、隣のデスクにいる先輩に30分様子を伺い続けたこともある

「あー忙しそうだな」「でも忙しくないときなんてないし、声かけるしかないよな」「でも今の作業はあんまり中断したくない系かな~?」「てかずっとこの先輩に質問するのも「いやなんでずっと私なん?だる~」とか思われそうちゃう?」「いや、そもそももう少し一人で考えてみるべきか?まだ頼るのは早い段階か?」「でもミスしてから言うのはだめじゃーん?」「あー悩んでいる間にも「こいつなんかきもい」って思われてるんやろなぁー」etc…

と、こんなことを考えていると時間はあっという間に過ぎるのである。
マジで気持ち悪い。死んだほうがいい。端的に社会不適合者。
はい、そうですね。間違いないです。

あとなにより苦痛なのが、電話。
私はどうしてもデスクで打ち合わせの電話ができない。
新人の作家さんに偉そうに持論を語っているところを先輩に聞かれたくない。「うわーなんか新人が偉そうに間違ったこと言ってるよw」と思われてないか心配しだしたら電話越しの声が聞こえなくなってしまう。
なので、私はいつもZoom会議用の個人スペースに逃げ込んで打ち合わせをしている。
まあ、それは自信がないのも大きな一因ではあるんですけれど。そこは努力して補っていかないといけないですけども。

そんなこんなで、私はいつも無意識に「他者の目」をハッキングしている。
悪い時だけでなく良い時もそうである。
noteでいいねがついたとき、例えばそれが知り合いだったら、その人の「目」を借りてもう一度自分の記事を読み直す。そうしてその人がどう思ったであろうかを追体験(?)するのだ。
なんなら全然知らない人でも、どんな人か想像しながら再読する。

これは、嫌われていないかという恐怖よりも、「自己愛」である。
私に対して人がどう思うのか知りたい、という自己愛。私の小説や音楽に対して、コメントを欲しがっているのと同じことだ。ある種の承認欲求を満たすために、他者の「目」を使っている。
まあ、私は気持ち悪いほどに私が大好きなので、普通に私の目で自分の記事やツイートやらを見返してしまうんですけどね。。。ふふふ。


そんなこんなで話がまた逸れましたが、
そうしてただでさえつまらん私がつまらんように振舞ってきたなかで、
お酒によってちょっとだけその「目」を無視できたよ、というお話です。

無視、ということは「目」をハックすることはやめられてないんですよね。これ重要(んなことない)
いうて酒を大量に飲んだわけではないので、別にべろんべろんになった訳でもなく、ただちょっと思考がめんどくなったくらいなので、全然他者の目は発動してしまいます。主観100%になるのはとても難しい。

しかし、アルコールというのは「理性」の対義語という共通了解がある。
だから、そこまで酔っていなくても、「酔ったことにできる」という予防線があることによって、少しの無礼が許される場になるわけですね。
あと、つまんない冗談を言ってスベった時の気まずさが職場とは段違いというのもあるね。

先輩って、マジで今まで全然ちゃんと付き合ってこなかった人種なので、
もう兄弟のように甘えるか、独立するか、くらいしか関わり方を知らないんですね。

だから、どこまでの無礼が許されるのか、その線引きもよくわからない。
うまい後輩ムーブもわからない。
もちろん人それぞれ解が微妙に違うのは大前提として、ね。

なので、選択を間違えるリスクもかなり大きくて、
なかなか自分を出すことができない。
「自意識」もとい「理性」もとい「自己愛」が邪魔をしてしまう。
しかしそうなると、誰にも自分を知ってもらえないという地獄に陥ってしまうわけです。


なので、これからはストゼロ3本飲んでから職場に行きましょう!乾杯!!



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