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私はとっくに「私」を面白がれなくなっている


幸せとはなんだろう?

最近の私にとってその答えは
「働いて疲れきった夜、家でひとりお酒を飲みながら、好きなYouTubeの動画を見ること」である。

そう気づいたのは最近だが、思えば大学生の頃から、
(私はコロナ禍とほぼ同タイミングで合法的に酒を飲めるようになったのであるが)そうだったような気がする。一番酒が美味しい瞬間は、ひとりで何かのコンテンツを消費しているときだ。

居酒屋で飲み会に参加している時とか、クラブで音に乗っている時とか、いい店でいいご飯を食べている時とかのお酒ではない。
ひとりで果実系かカクテル系の甘い酒を、マックのポテトとかスーパーの総菜とかいかり豆とかをつまみに飲んでいる時が一番美味しいのだ。

ガキだなぁ・・・。

と、我ながら思うので認めたくなかったが、
最近あまりにも鬱で、気持ちがふさぎ込んでいたから、
飲み会に行っても楽しくなく、むしろ先輩と行くと気疲れするばかりで、
自分は酒をだいぶ嫌いになったと自負していたので余計に、
最近酒飲みながら無邪気に動画を見て笑っている自分が楽しいことに気づき、
仕方なく自分のガキさを認めざるをえなかったのである。


・・・日本語が下手すぎる。
まあというか、それがリアルタイムに今というか、つまり私は今盛大に酔っているため、読みにくい文章を書いていても許していただきたい。
こういうのは鮮度が大事なので、ね。ええ。

自分がひとりでいるときに笑っていると心底安心する。
それはだれのための笑顔でもなく、本当に面白かったがゆえの笑いだからだ。周りに合わせたり、空気を読んだすえの笑顔に、私はもう疲れていた。


しかし、それが厳然たる事実だとして、
それが「幸せの定義」になってしまう人生は、なんだか貧しい。
そこには、私以外の人間が変数として組み込まれていない。私が社会に参加するモチベーションはほとんどなくなってしまう。私はやはり他人に干渉しないで生きていくべきなのだ、というそんな結論を招きたいわけではない。

そう、そうなのだ。
私はかなしい。
他人に積極的に干渉し、また同じように他人に積極的に干渉されることを望むことのできる人間たちがうらやましい。
そうあれない自分がうらがなしい。


私はひとと仲良くなりたい。
他人の前でも屈託なく笑いたいし、屈託なく笑わせたい。そういう関係でありたい。
しかし、雑談をするたびに私のCPUは「嫌われない」「間違わない」「傷つけないという名の傷つかない」に容量が割かれて、ただでさえ少ないコミュニケーションスキルが半分も発揮できないまま、誰とも仲良くできずに終わる。

いっそ、誰とも仲良くならなくてもいい。
友達がいないわけではないのだから、積極的に増やそうとしなくていい。
そう割り切るのもひとつの手なのだろう。
でも、私はそれができない。それはひどくかなしくて、さみしいから。

そう思い込んでしまっているのも悪いのだろうか。
しかし、私の職場では、日夜人脈の尊さが叫ばれ、皆が交流を深めている。
そうした環境で、私はそうした価値観をどんどん内面化し、自分を責めている。


何の話だったっけか。暗い話になってしまった。
宵が明け、酔いが覚めていく。

思い出した。
私の幸せの定義が「自己完結」していることに
ひどく貧しさを感じる
という話だった。

そして、それ以上に、私は
それが「消費型」の幸せであり、
そこに「私」すら組み込まれていないということが、
ひどく悲しい
のである。

そう、この幸せにおいて、私は何もしていない。
私は何も生み出していない。
誰かに何かを言ったわけでもない。
何か新しいものを作った訳でもない。
世界に何の干渉もしていないのである。

それはつまり、私は私の幸せをただ享受しているだけで、
そこに何も参加していないのである。

何か問題なのかと思う人も多かろう。
別に倫理的に間違っているわけではない。私の性(しょう)の問題だ。

私はもとより、何かを作るのがすきだった。
何かを消費するよりも、何かを生み出すのが好きだった。

人生で一番幸せだったのは、高校の文化祭の時である。
私は3年連続で、クラス発表の企画に携わった。特に3年生の時は演劇の脚本・演出・音楽をやっていた。とにかく楽しかった。
あの時は本当に大変だったけれど、寝る間も惜しんでできた。私には社畜の才能があるな~と当時思っていた。今は定時を超えるとお腹が痛くなる。早く帰りたくて仕方がない。

話が逸れたが、
そう、私は、オードリー若林風に言えば、
モノよりコトの方が興味がある人間だった。
何かを買うとか何かを食べるとかより、面白い人と何か面白いことをするとか、いい物語や歌詞を考えるのが好きだった。

そういう人間だったはずだ。
いや、そういう人間でありたかった、だけなのかもしれない。

だから、
「ひとりで酒を飲みながら、娯楽を楽しむ」という消費型の幸せに、もっとも幸福を感じている現状は個人的に思わしくない。

そこにせめて、一番良いつまみを作るとか、良い酒を探すとか、少しでも主体的に幸せを自分で凝って構築できる余地があればよいのだけれど、
その場合においての私の楽しさの根源は「現実からの忘却」なのだから、仕方がない。あるいは「自己からの忘却」かもしれない。

そう、私はむしろここで徹底的に「私」を忘れようとしていて、
これは私の好き好んでいた創作と真逆の営みである。
創作とは、「私」と向き合い、「私」にメスを入れ、「私」と世界を干渉させ合う行為である。

しかし、おそらく私は「私」に疲れている。
というか、もはや「私」を見失っており、「私」を探す/定義する/でっちあげる、という行為に私は疲れている。

急に話は変わるが、
先日、文フリに少しだけ顔を出したが、すぐに頭痛がしてその場をあとにしてしまった。
即売会に行くと、よくそうなる。
多分、その場のエネルギー量、熱量にあてられるのだろう。
文学的に言い換えるならば「世界観」の圧に負けるのだ。
そして、その場には「世界観」を持った人たちばかりが集まっていて、バトルマンガのように、それをオーラのようにまとってぶつけ合ってじゃれ合っている。
私の空っぽな世界観では、ぼこぼこにされて終わりなのだ。

だから、即売会に行くのは本当は嫌いだ。
モチベ上がった~!とかうそぶいてツイートしたりもするが、大体「二度と来るか」と思っている。それと同時に「俺もいつか出展できたらな」などとふざけたことを内心希っている。

こういう場で疲れてしまうのも、
「私にしか持っていないものってなんだろう?」
「ここで目立つなら私は何を尖らせばよいのだろう?」と
半無意識的に「私探し」が始まってしまうからだ。
そして大体見つからなくて落ち込んでしまうからだ。

私には、私に対する異常な執着以外、もはや何もない。
もしくはこんなに憂鬱であるという「傷」を切り売りするくらいしかないが、それはあまり気が進まない。
それをやってしまったら、私はいつまでも明るくなれない気がするからだ。


しかし、憂鬱さが増す日々のなかで、
私はどんどん私を嫌いになっていく。
だから、私を忘れる状態が一番幸せになってしまうのだ。

こんな自意識マシマシモノローグマシマシの私がそんな状態になれるのは、
人の目を気にせずリラックスした状態での飲酒か、
単純に眠っている時だけである。


本当はこの酔ったノリで短編小説でも書き上げたかったのだけれど、
結局こんな塵芥のようなエッセイに逃げてしまうあたり、
良くないなあ。

しかし、まあ、酔っていると言葉がこうもすらすら出てくるものだ。
書きたいことが頭を駆け巡って手が追い付かない。
話が横に逸れすぎるからやめようという理性のおかげで、まだギリギリ保っているくらいだ(これで?)

普段の私がいかに頭のリソースを余計なことに奪われているかがわかる。
はあ、SSRIでそういうのって改善されるのかしらん?


次号、わたくし心療内科に行く編。乞うご期待です。


(唐突な続編告知)









追記 12/24 00:13
書き終わってから「読みにくいなあ」と思いながら大して加筆修正もせずに感じたことは、
「でも、帰っておもろい動画見て酒飲めば自分の機嫌取れるしな」と気付けるようになったのは、普通にとても偉いなということだ。
そういう観点からすれば、この自己完結した幸せの定義も悪くない。
誰にも迷惑をかけずに、誰にも頼らずに、その場しのぎではあるが心の安寧を得られるのだから。うん、なんだかそう思うと良い結論だった気もする。
そういうことにしよう。
私が私を取り戻すのは、心が安らいだ後でいい。






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