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3学期の匂いがする。


季節の変わり目は胸が痒くなる。
胸が痒くなると、詩を書きたくなる。小説を書きたくなる。

季節の変わり目は、
来たる季節への期待と、終わりゆく季節への寂寥の両方を連れてくる。
私はその明るいノスタルジックさが好きだ。

もっと言えば、来たる季節への期待だけでなく、
その季節の思い出さえ呼び起こされる。
それくらい風の匂いは、記憶と密接に結びついている。


しかし、年が明けて。
こんなにも自分が新年の空気を好いているとは思わなかった。

実際にはまだ冬から冬で、
四季としては過渡期ではないのだけれど、
それでも人は社会的な生き物なので、
勝手に定義された「新春」という言葉で、
何か新しい風が吹いたかのような感覚を覚えてしまう。


私は一年ぶりに新年を迎えて、
あらためてこの空気が好きだと強く思った。
今までの23回分の記憶が、よりこの空気を好きにさせている。

そして、
それらを思い返すと、それは冬とか新年とかではなく、
主題に書いたように「3学期の匂い」なのではないかと思った。

既に街からは、僅かながらに春の匂いがする。
それは12月31日と1月1日で明らかに違う。
暦の問題ではないが、
街が、空が、人々が、来たる春を見つめている顔をしているのだ。


それはつまるところ、3学期の匂いなのだ。
1学期や2学期に比べて明らかに短く、
どこか弛緩した空気が流れ、
3年生の教室は自由登校で人まばらになり、
このメンバーでいるのもあと少しとやけに感傷的になるも、
だんだん暖かくなる陽に胸ふくらむ。

なんだか卒業式の答辞みたくなってしまったけれど、
そうした空気のすべてが私を創作へと向かわせる。

つくづく私は四季のある国に生まれてよかったと思うとともに、
なんだかんだ私はやはり「変化」が好きなのだろうと思い知る。
だからこそ私は「物語」というものを求めているのだ、と。

しかし、最近では物語に「変化を求めない」人も増えてきている印象である。それに応答するようにVTuberの人気も高まっているのではないか、というかなり雑な「VTuber=日常系アニメ」説が私のなかで温まっているが、それはまた別の話で。


新年の話に戻すと、
私は学生時代から新年の空気を嫌っていた。
何かが変わりそうなくせして、そんな期待だけさせて終わっていく。
どうせ来年の今頃には忘れている抱負や祈りをすることだって。

でもそれは、それだけ新年の空気が好きで、
否応なく心が突き動かされてしまうからこその嫌悪だったのだろう。
それが蜃気楼のような見せかけの変化だと知っていたから、
私はそれを嫌っていた。

でも、社会人になって、停滞する日々の中で、
もう夏休みも春休みもなくなった、
1学期も2学期も3学期もない日常の中で、
幻であっても「変化」を感じさせてくれる暦の空気は喜ばしいものなのだ。


単に、年末年始は久しぶりに仕事のことをすっかり忘れられた、
というシンプルな動機も大いにあるのだろうけれど。

私はこの新年の空気に久しぶりに精神が弛緩したような気がする。

初めて自宅に炬燵を設けることができたのも、その一因かもしれない。
いま私は、人生で初めて自分を甘やかすことが楽しい。


だからこそ、仕事にしたって創作にしたって
緊張せずに肩ひじ張らずに、
「弛緩」をテーマに、この一年を乗り切っていきたい。


そんなことを思わせてくれた新年だった。
1月の夕方は、雲のない淡い青と、淡い橙に照らされた建物がまぶしい。
暖かい部屋から寒い屋外へ出た時の爽やかさ、
凍えた手足がストーブで融けていく朗らかさ、
従兄弟と張り合ったゲーム、
身に入らない受験勉強、
駅前で寄せ合う身体、
祖母の優しい目、
灯油の匂い、
冷たい鼻、
そのすべてが、3学期の匂いすべてが、私を春へと向かわせてくれる。

何か変われるかもしれないという温かい気持ちが、
冷たい心の底にゆっくり滑り込むように、湧いてくるのである。







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