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ゆずのうみ


明日も仕事なのに眠れない。寝たくない。
というか働きたくない。

それなりに好きな仕事に就いたはずなのに、
回り続ける車輪の上でハムスターのように走り続けるような日々に疲れている。

仕事には、少なくとも私の仕事には、終わりがない。
今月が終わったかと思えば、来月の仕事が始まり、
最近は今月が終わってもないのに来月再来月来年再来年と、
どんどん未来の仕事が降りかかってくる始末だ。

一体いつになったら休めるんだ。
社会人には休憩がない。
区切りがない。

学生みたいに、数年で区切られる「卒業」もないし、
定期的にやってくる「試験」もない。
試験後に待つ「長期休暇」も殆どない。

というか切れ目がない。


…といったように、私の社会に対する愚痴はとどまることを知らない。

あるいは、
社会と折り合いのつけられない「私」に対する不満も、とどまることを知らない。


私は日々いつも「傷」を負っていて、
もしかしたら世間のみんなは、酒を飲んだり、ゲームをしたり、友達に話したり、推しのコンテンツを享受したりして、その傷を癒しているのかもしれない。
私にとっては、その手段が「創作」だった。

それが創作をやる理由のすべてではないけれど、
心の傷や葛藤や悩み、蟠りをカタチにして客体化する。

そうして私は、自分の傷を癒してきた。
(逆にポジティブな気持ちをカタチにすることも沢山あるけれど)


しかし、社会人になれば
ぽんぽん創作ができるほど時間や気力を確保できなくなってしまうから、
私の心の鬱憤は溜まり続けてしまう。

だから、準創作としてこのnoteがあるのだ。

本当は、今すぐこんなのやめちまいたい。
…というのはさすがに嘘だけれど、noteというメディアでしか書けないことも多分にあるんだけど、でも、創作に昇華されるはずだった感情が軽率にこういった記事として消費されているのもまた事実ではあって。
そうして「創作した気になって満足している」自分に、本当は危機感を覚えていて。

それでも今を生き延びるために、
私はこのメディアが必要なんだと、最近私は気づいてしまった。

最近といっても、年末年始くらいだと思うけれど。

だから私はnoteの名前を変えた。
「ゆずのうみ」と。

一見、可愛らしい名前で、見た目がいい。気に入っている。
「ゆずの/うみ」と考えるとフルネームにも聞こえるので、どこか作家っぽい。

そして、何よりこの追加された「うみ」とは、
広大な思考としての海、そして孤独な私の居場所としての海…とかでは全然なく、これは膿という意味である。


この記事たちは、私が社会で生きていくために、
私の傷を癒す過程で生まれた穢い副産物です。

そういった意味を込めての「膿」である。

そう、これらは決して綺麗な言葉たちではない。
推敲に推敲を重ねることはほとんどない。

ましてや、私の綺麗な部分を映し出すこともない。
綺麗に取り繕おうという意思すらもない。

でも、私にとって必要な言葉なのだ。


これらを間違っても作品などとは思わず、
これらが評価されようとも決してnoteなんかに力を入れようなどとは思わず、ましてや読者の読みたいものなど考慮もせず、
ただ自分に必要な客体化、自分や社会に対する気づきを書いていく。

そういう自戒も込めての、改名であった。



この説明をずっとしようと思っていたのだが、
正直言って面倒くさくて、
というか何より自分がわかっていればよいので必要に駆られることもなくて、
でもちゃんと言語化しておきたい気持ちもあって、

たまたま何かを書きたいこんな夜があったから、
「膿」とだけタイトルに書かれた下書きのファイルを開いた訳である。


noteの下書きには、そんな感じでいくつもタイトルだけ、文頭だけメモした記事があるが、
ある意味何かをアウトプットしたいときに使える常備薬みたいで良い。

今、ほかには
「しびれ」「ゴミに頭を使いたがる」「差別と私とラップバトル」「謙虚で無礼な人」「toy or rat」「感情の「物理学」」「おーい磯野、恋バナしよーぜ!」
などなど、もはや私すら趣旨を覚えていないタイトルだけの下書き記事が数多転がっているが、また私が何かを書かないとしんどい時になったら、
この引き出しの中からそぞろに取り出して書いていこうと思います。

まあでも、その夜の気分のまにまに新たに書く方が結局は多いと思いますが。



という訳で、今回は。
いえ、今回も特に誰も興味ない私の改名のお話でした。






P.S.
なんか文章を書きたくなったといったのは嘘じゃないんだけど、
noteの毎月投稿が途切れるのはなんか癪だったから3月書けてよかった~。


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