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火曜日の宇宙人

雪子先生が亡くなったのは、今にも雲が剥がれ落ちてきそうな朝だった。
あの雲はきっとズッシリとした重さを持っていて、埋もれた私はきっと窒息してしまうんだろう。
ニュースはこの1年に起きた出来事を矢継早に振り替えっていて、ああ今年が死んでいくんだな、なんてことを呟いていた。
地下鉄サリン事件、阪神大震災。
いよいよやって来る世紀末、ノストラダムスの大予言。
世界は本当に滅んでしまうのかもしれないって、その日の空をみながら考えていた。

私にはエレクトーンを習いたいなんて言った覚えはない。
ないんだけれども、お母さんと麻央ちゃんのお母さんが話していたことは聞こえていた。
「女の子だからピアノくらい弾けた方がいい」
「最近はエレクトーンも流行りなのよ」
タウンページに載っていた一番近所のピアノ教室は雪子先生の教室だった。

毎週火曜日、その日はやってきた。
特にやりたいわけじゃない、友達だって出来ない。
第一いつまで経っても上手にひけやしないんだ。
そもそも自分に期待していないのだから問題はないけど、さすがにあまりにできないのもなあ、と小学生の私は頭を抱えた。

熱が出れば休めるのかと、体温計をこすってみたりもした。
だが電子体温計は精密で、私の嘘を悉く嘲笑った。

県道を挟んで向かいのマンションの一室にある先生の部屋。
家の扉はめぐちゃんちやさきちゃんちと同じなのに、レッスン室へ開く防音扉はズッシリと重かった。
あの重みと取っ手の冷たさは今でも手に染み付いている。

「毎日エレクトーンに触れなさい。1日5回は練習するのよ」

雪子先生はそう言っていたけれど、1週間で3回程度練習すれば私の中ではかなり上出来だった。
雪子先生はそんな私の意識低い根性を早くから見抜いていたんだと思う。
レッスンに通い出して3ヶ月もすれば、「もっと練習してきなさい」なんてことは言わなくなった。
その代わりに毎週毎週同じところで詰まる私の指をチラッと見て、小さな溜め息をつくようになった。

先生が溜息をつくと、たばこのにおいが少し部屋に漂った。
お父さんの匂いとは少し違う、でもやっぱりたばこのにおい。
女の人でもタバコ吸うんだ、と当時は驚いた。

雪子先生は7歳当時出会ってきていた大人たちのどれとも違っていた。
垂直に上を向いた睫毛。
真っ白な顔。
目の周りは真っ黒なのに、人を食べたあとのような真っ赤な唇。
肩や首筋から香る甘ったるい臭いと、たばこのにおいがまじってわけがわからなかった。
先生のウエストはお母さんやおばさんの太ももくらいの細さだった。
見たことのない、新しい人類、いや地球外生命体のようなそんな人だった。
初レッスンの帰り道、母にこう話したのをよく覚えている。

「雪子先生って宇宙人みたいだね。」

毎週火曜、私は宇宙旅行に出ていたのだ。
あの宇宙人は唇と爪を真っ赤に塗っていた。
レッスン前に真っ赤な爪を片手で剥がす。
剥がれたあとの爪は信じられないくらいに深爪で、たまに血が滲んでいた。
この宇宙人に捕まったらきっと私も深爪にされてしまう。
レッスンを嫌がっていたのはあの赤い恐怖をどことなく抱いていたせいなのかもしれない。

それでもいくら小さな溜め息をつかれ続けても、爪を直視できなくても、私は火曜に宇宙人の部屋に通い続けた。
宇宙人にちょっとだけ興味が出てきたのだ。
いやむしろ雪子先生は本当に宇宙人なのかもしれない。
先生が付け爪を剥がす瞬間はいつも目を背けていた。
それが付け爪だとわかっていても、直視はできなかった。
痛くないのかなあ、いや宇宙人だから痛くないのかな。

初めてであってから1年半が経った真冬の日、宇宙人は宇宙に帰った。
雪子先生が亡くなった。

市内の小さな斎場で葬儀が行われているということで、母に連れられて向かった。
当時父方も母方も祖父母は健在で、人の死に立ち会うというのはこれが初めてだった。
死に際したことも、ましてや考えたこともなかった。
死んじゃった人はどこにいくのかな。
そんなことを思いながら、お母さんを真似て焼香をした。

「先生なんで死んだの」
「心臓が急にとまっちゃったんだって」
「心臓とまると死んじゃうの」
「そうよ」
と言ったあとに母は、雪子先生なんだか具合悪そうな顔してたねと付け加えた。

斎場から帰り道の車の中、やけに暖房が効いた車内が少し気持ち悪くて窓を開けた。

朝からどんより曇っていた空から、ついに雨が降り出した。
どうせ雨なら雪になればいいのに。
それにしても疲れたな。
お葬式って結構大変なんだ。

「あんたエレクトーン好きだった?」
「好きでも嫌いでもないけど」
「けど?」
「けど……怖かった」
「怖い?」
「怖いんだけど、なんだか目が離せなかった」
そのとき先生の付け爪の話をはじめて母にした。
母は少しだけ笑った。

先生、宇宙人みたいだったからさ。
だからきっと宇宙に帰ったんだよ。

死とは、生とは、なんて今でもわからないけれど。
あのときは無理矢理にでも納得しようとしていた。
そうでないと、火曜日の夕方の気持ちをどこに持っていけばいいのかわからなかったからだ。


遥か昔、重い防音扉の向こうの宇宙空間。
思い出すのは真っ赤な付け爪と深爪の宇宙人。
顔も声もうろ覚え。

それでも指先だけは鮮やかによみがえる。

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