アイテム制作を通して学びを考える
こんにちは、かずらです。
普段は主婦ですが日中は主にクラフトアイテムを作っています。
アイテム作り
一年くらい前からワールドを作り始め、その少しあとからアイテム作りを開始。
ものを作り出すのは素敵なこと。
まずモデリングして、Unityに持ってきて設定して、clusterにアップロード。必要ならペイントソフトで、テクスチャを描くことも。
けっこう手間はかかる。
アイテムを作るために私はunityとBlenderとペイントソフト、さらには著作権や音の編集まで学ぶ。
一つ作るために、学びは広がる。
学ぶとは言ってもアイテム作りは私にとってはいちばん楽しいこと。
楽しみのために学び、それを積み重ねて達成する喜びを知る。
何かが「できる」というのは、努力とか才能とかそんなハイレベルの話ではなく、結局どれだけ楽しんで学びを積み重ねられるかが、大事なんだと思う。
こういう学びは理想のかたちのような気がしている。
学ぶ意欲を高めるもの
アイテム作りは、繰り返し学習と単調作業の連続だ。
一般的に見ればかなり時間と努力のいる面倒な作業だ。
それをできてしまうのはなぜだろう。
たぶん、
見てくれる人がいる。使ってくれる人がいる。喜んでくれる人がいる。
結局そういうことのような気がする。
clusterのアイテムを作ることのメリットは、自分のアイテムがワールドで使われているのを自分の目で間近に見ることができるということだ。
自分のアイテムが、ワールドクリエイターの思いを表現するのに役立っていること、そのワールドで沢山の人が楽しんでいることを、私は身近で感じることができる。
これは大きなことだ。
例えば3Dモデルをつくって売る人の多くは、自分のものがどこでどう使われたかわかるだろうか。
喜んで使ってくれる人の様子がわかるだろうか。
そこにはかなり距離があると思う。
作りたいと思うのは、やはり喜んでくれる人がいるからだ。喜ぶ人の顔を見れるかどうかは重要だ。
clusterでのアイテム作りのよさは、見てくれる人の喜ぶ様子を感じることで、自分が誰かに必要とされていると実感できるところだ。
自分のやっていることが、誰かを喜ばせているという実感が、自分自身の喜びとなって、大きなモチベーションになる。
学ぶには、自分の内側からのモチベーションが重要だ。
私が学ぶ意欲を継続できるのは、私の作り出したものによって喜ぶ人の様子を実感できるという、ワールドクラフトの環境のおかげだと思う。
学ぶ意欲には、環境が大きく関わっていることは確かだ。
子どもも大人も、喜べる環境に身をおいて学ぶ意欲を持てるようにするために、できることはないだろうかと模索している。
学びのかたち
私は自分の子供たちを育てながら、学びとはなんだろうかとよく考えます。
学びは大切、だけど強制するものではない気がする。
そもそも強制されなければ取り組めないとしたら、その学びに価値があるのか疑問だ。
自発的に学ぶ時に、学びは本当の学びになるのではないか。
ならば自発的に学ぶのに、必要なものは何か。
私たちが子どもたちに伝えたいのは、勉強の苦しみではなく、点数で決まる自分の価値でもなく、努力しても報われないという不条理でもなく、”学ぶ喜び”のはず。
世の価値観はいまだ苦しんで学ぶことをよしとするけど、私たちが本当に伝えたいのは
「学びは人生を豊かにする、学びは喜び、学ぶことで人生は楽しくなる」ではないのかな。
しかしほとんどの人は、この学びの喜びに到達できないでいる。
自分が何かを「できる」場所に巡り合えないまま、努力も能力も報われないと嘆きながら、日々を漠然と過ごしているように思う。
私は子育てと家事だけに忙しくしていた長い間、もちろん喜びもあったけれど、ずっと心は満たされなかった。
何かしたい、自分にできる特別なことをしたいという思いがくすぶっていた。
少し余裕ができてメタバースを知り、アイテム制作に巡り会えたのは、幸いなことだと思う。
私にとってはこの環境は最適だった。
でもどの人にも適しているというわけではない。
ほかの誰かにとってはこの環境はただの修行の場所であるに違いない。
それぞれの人に適した環境があり、そこで能力を発揮するための積み重ねが、報われる努力と呼ばれるのだと思う。
同じするなら、報われる努力に力を注ぐほうがよい。
親としての立場で言えば、子供が努力していないかのように見える時、それはその環境とその子の資質がマッチしていない状態だと認識することが大事だと思う。
努力していないことを他の子と比べて責めるよりも、まずその子の資質をよく知り、その子の資質を活かせる環境を備えるのが先決だ。
他の子ができるように見えるのは、たまたまその環境がその子に合っているだけのこと。
そして自分の子には、合っていないというだけのこと。
生まれ持った資質に逆らった努力は、人を苦しめる。
苦しくない努力を人はするべきだし、それをしなくて済む場所はきっとあると思う。
ただ、しないほうがいい努力というのもないと思っている。
矛盾しているが、苦しんでした努力にも意味はあると思う。
経験によって、やっぱり見える幅は広がるから。
自分にあった環境を見つけるには、結局、経験や努力も必要だ。
実を結ばないたくさんの努力を経て、実を結ぶ努力に辿り着けるとでもいうのかな…
ややこしいね
私が当時は意味を見いだせなかった子育て期間も、今の私にとって決して無駄ではなかったと思える。
今までのすべての時間が今の私を成り立たせている重要な要素だ。
だから意味がないように思える時間も、長いスパンでみたら意味があるのだと思う。たぶん。
喜びを動機として学ぶ時、人は最大限に能力を発揮できる。
「好き」はいちばんの強みなのだ。
そういう自分の資質に合った場所で努力をするのが理想。
親としての視点で言えば、子供の資質をよく見極め、それに合った子ども主体で学べる場所を見つけることが大事。
子供は何をしているとき、楽しそうだろうか。
苦手を克服することに翻弄されるよりもその子の興味や関心を活かせる場所を探すほうが、親も子も幸せだと思う。
言うほど簡単にはいかないのは、わたしもよく知っているけどね。
メタバースでしたいこと
私がclusterで伝えたいことは、子育てで苦しかった時期に抱いていた、こんな子育てをしたい、してほしい、という願いとリンクしている。
例えばメタバース上の教室で学べるとか、モデリングやプログラミングやunityを学ぶとか、多様な学びをずっと求めていた。(うちの子達は学校に適応できないタイプなので)
もともとそういうものを求めて、メタバースの世界に来た。
さらには子どもたちに、いろんな生き方があることや、学びは自分のためになること、学びは喜びだということ、成長し続ける大切さや、他の人を認め自分自身も認める在り方、それらを知ってほしい、という願いも加わった。
それをまず自分が実感するために私はここにいて、学び、成長しようと日々を過ごしている。
子供たちの前にある、まだかすかにしか見えていない将来への道筋を、私が前の方から導いて、明るい未来へとつなげられるようにするために。
やがては道を譲って、後ろから見守るであろう道を。
苦しみを経験しなかったら、今の私はないと思う。ただ、のほほんとランチでも食べていたに違いない。
すべてのことは、きっと今につながっていて、
今この時も、未来につながっている。
私は今日なにをしよう。
過去の集大成である今日、
未来の始まりである今日、なにを学ぼう。
今この時が積み重なって未来が築かれるということをイメージしながら。
読んでいただきありがとうございます!
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