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舞台『刀剣乱舞』山姥切国広 単独行 -日本刀史-感想

舞台『刀剣乱舞』山姥切国広 単独行 -日本刀史-を観劇させていただきました。

https://stage-toukenranbu.jp/stage/



山姥切国広というたった一振りの刀剣男士が、東京・京都・福岡の劇場をめぐる行脚修行の旅路です。
全39公演のチケットが完売している大人気公演ですが(当日券はありますが抽選激戦の模様)、ご縁があり京都劇場での公演を観劇する機会を得ることができました。


※舞台『刀剣乱舞』シリーズをすべて追っているわけではないので、あくまで私の視点から感じた所感を綴らせていただきます。情報に誤った点があったら申し訳ありません。
※全体的にネタバレ含む感想です。



単騎で全39公演を埋めるまんばちゃん

舞台『刀剣乱舞』山姥切国広 単独行 -日本刀史-は、2016年に開幕した舞台『刀剣乱舞』のシリーズ初となる1キャラクターメインの単独公演です。
ゲーム「刀剣乱舞ONLINE」を原案に、末満健一さんが脚本・演出を手掛けたストレートプレイ版の舞台化作品である本作は、シリーズで繋がる重厚なストーリーが多くのファンからの支持を集めています。

特に、原作で人気を誇る三日月宗近と山姥切国広の、舞台『刀剣乱舞』の世界で描かれる関係性には、心を掴まれる切ない魅力が詰まっています。舞台『刀剣乱舞』、通称『刀ステ』の世界で金将が三日月宗近ならば、荒牧さん扮する山姥切国広は銀将のような布石でしょうか。はたまた痩せ細った三日月とそれを照らす煤けた太陽なのでしょうか。

また、山姥切国広 単独行 -日本刀史-に単騎で旅立った山姥切国広に扮する荒牧慶彦さんは、舞台『刀剣乱舞』の看板役者であると思いますし、“2.5次元”ブームを牽引する存在のひとりで、1キャラクターで全39公演を埋めることができる集客力を誇っています。


不思議で無二の優しいお話

山姥切国広 単独行は、舞台『刀剣乱舞』が紡いできた歴史と軌跡の上に、荒牧慶彦さんという役者さんの魅力と底力を上乗せした、演劇的な無二の興行だと感じました。

物語は見る人と合わさってはじめて完成するもので、受け取る人の数があればその数だけ、間違いはあるんだけど、間違いはないものだというメッセージを受け取りました。
山姥切国広 単独行は、舞台『刀剣乱舞』という人気メディアミックスを背負い、2.5次元ブームと共に一線を走ってきた人たちだからこそ辿り着いた一つの解であり、他の役者でも、脚本家でも、時空でも達成できない、ある意味では奇妙な話でした。
ここで言う奇妙とは誉め言葉の意味であり、強烈な個性と積み重ねた道のりの先だからこそアウトプットされた、貴重な興行であると感じました。


煤けた太陽は救いの道標だった

『刀剣乱舞』というコンテンツの特性として、「各本丸」というプレイヤー視点のフィールドが多く存在しておりメディアミックスも盛んなため、他のタイトルよりも自由度の高さを感じます。舞台『刀剣乱舞』で描かれる山姥切国広は、キャラクターの性格として可愛らしい印象が強く、「コンプレックス」や「うしろめたさ」を多大に抽出されている印象でした。

「煤けた太陽」とは、シリーズの中で三日月宗近が山姥切国広を形容した言葉ですが、たしかに彼はピカピカサンサンの光属性ではない印象です。
山姥切国広という刀は、本科『山姥切』を模して造られた写しであるというコンプレックスをこじらせつつ、同時に刀工堀川国広の第一の傑作としてのプライドと自己愛がこんがらがっている。そんな面倒な部分や、うじうじとした内向的な性質が、ある意味では人間的であり、ファンの価値観にも等身大に伝わってくる弱さがある。そうやって親近感と愛らしさを感じてしまう絶妙なキャラクターだと感じます。

強すぎる光が当たれば、周りが見えなくなってしまう。自分自身だって見失ってしまう。まぶしすぎる光は時に残酷でもある。
三日月宗近にとって、また刀ステの世界を愛するファンの皆さまにとって、山姥切国広という刀が持つくすぶったまろやかな光こそが、先の見えない命という円環の道を進むための、救いの道しるべだったのかもしれないなということを改めて感じました。


「救う」から「信じる」強さに

「三日月宗近を救うのはやめる、信じる」
単独行の中でとても好きだった山姥切国広の台詞です。

反対に、黒い山姥切国広がしきりに口に出していた「三日月宗近を救わなければ」とは、ある側面から見れば母親的な優しさの愛です。しかし対象を甘やかして弱くしたり、自分の使命感というエゴイズムに取り憑かれる危険も孕んでいるように思います。

「三日月宗近を救うのはやめる、信じる」という、修行の先で極になった山姥切国広が発した言葉は、ある意味では突き放す厳しさも含まれた強い言葉だと感じました。真の意味で三日月宗近を救えるのは三日月宗近自身でしかない、という谷底に落とす父の強さでもあると思います。

刀ステで紡がれる物語、それを牽引する山姥切国広、双方で強さの定義が一段深く上がって、しっかり地に足をついて踏みしめて生きるんだという覚悟めいたものを感じました。

自身のこじれから生まれた黒い山姥切国広を斬るのではなく抱きしめた山姥切国広は、なんとも心優しくて山姥切国広らしい行動だと感じました。
そして朧となった山姥切国広を、舞台『刀剣乱舞』綺伝 いくさ世の徒花の時空で、本科・山姥切長義が斬るという展開に繋がるんですね。本科による“偽物くん”のしりぬぐいですかね。
このギミックに気づいたとき、伯仲オタクの自我がうおおっと叫びました。山姥切国広に足りないもの、そして山姥切長義の保有する本科の誇りと強さとは、厳しさの覚悟の愛なのかもしれないなと感じました。

長義の愛はとても本質的で、官僚っぽいなと感じます。見る人の見方によっては冷たく感じられるでしょう。世間的な正義とか悪とか関係なく、トロッコ実験で迷いなく犠牲の少ない選択肢のレバーを引ける厳しさこそが、国家官僚の度量と正義の形だと思いますし、私はそういう長義を愛しているので、末満さんのキャラクターの関係値の『こういうの、いいよね!』っていう繊細な感覚の描き方は信頼があります。キャラクターは出演していないのに、背後、前後の存在感のみでそこの萌え的なものを出せる奥行きが楽しいしSDGsですね。

写しであって姿かたちの軸は似ているのに、決して交わらない伯仲の出来のふたりの奇妙な関係が映し出されているような描写で、とても好きでした。


漫画で学ぶ日本と刀剣の歴史の実写化~荒牧慶彦さんビュッフェ~

織田“三郎”信長、ふくのすけと共に、日本刀史をめぐり先人に想いを馳せる山姥切国広。

物語とは空想で、究極の作り物のはずです。しかし観た人が想いを馳せたとき、架空の人物やキャラクターの中には息吹が吹き込まれる。芝居とはなまもので、生きた人間が物理的なお稽古などの労力をかけて役者同士や観客と呼吸を返して、糸を紡いだ先に生まれるものなのだと感じました。
ストレートプレイの演劇で、荒牧さんや刀ステの歴史が織り重ねた想いが多大にふくまれた演劇だからこそ、そういったメッセージが強く伝わってきました。

視覚的に魅せる効果として、山姥切国広扮する荒牧さんが日本刀史に携わった偉人に扮する、という二重構造の展開に繋がります。それは不思議だけど説得力がありました。
ある意味では劇中劇の劇中劇という複雑な構造。素人感覚の感想ですが、下手にやるとしっちゃかめっちゃかになって大変そう!ということがまっさきに思い浮かびました。演じ分け、台詞量、体力、すべてが大変そうだと一目でわかる物量です。
しかし同時に、これは役者冥利に尽きるし演じている側は楽しいだろうなとも感じました。やりこなせる荒牧さんのポテンシャル、末満さんからの信頼、演劇的に長けたアンサンブルの方々の好演、この道で本気で生きている人ならば、とても名誉でやりがいがあるだろうなと思いました。

メイクが山姥切国広のつやつやなままで偉人を演じるのでとても不思議な感覚があるのですが、違和感を越えてめちゃくちゃ味する……と噛み締めてしまう魅力があります。
一般的な役者さんが歴史上の偉人を演じたら『大河ドラマ』のような雄みがあるエイジングがかかると思いうのですが、荒牧さん扮する偉人たちは、『漫画で学ぶ日本と刀剣の歴史』の実写化みたいで不思議だな、と思いました。荒牧さん自体が中性的で柔和できれいな素材の方なので、大河ドラマにならずに漫画で学ぶ日本の歴史になるんだ!という発見が巻き起こり、まさに荒牧さんが2.5次元の王子様たる特別な逸材なのだと確信してしまいました。


偉人ビュッフェ好きポイント

■スサノオ、畠山義就
戦闘狂っぽくてワイルドでかっこよかったです。オラオラした芝居が好きでした。レアな荒牧さんでしたし、「生まれたばかりの我が子に〜」という台詞で子供おるんかい!となるので、女性をたくさん侍らせている情景が一瞬で浮かびました。生命力と闘志がむき出しにされた猛々しい荒牧さんを、ファンの子をなるべく傷つけることなく、合法的に浴びれる演出でよかったと思います。
荒牧さんは顔が綺麗系で柔らかい印象なのに、気質のみでワイルドな雰囲気を出すのがうまいと思いました。顔綺麗系と見せかけて冷たい狂気を含んでいて、三郎の「のめり込みすぎた」と台詞からだけではなく、客席にまでそう感じさせる没入感は、まんばちゃんがあくまで刀という武器で戦いの時代を生き抜いてきたこと、荒牧慶彦さんの男らしさの証明なのかもしれないと思いました。

■厩戸皇子
お上品な敬語を使う優男系の雰囲気。刀ステの流れから荒牧さんのファンになった子は好きそうだなと感じました。少女漫画の登場人物みたいなキャラクター性でも嫌味なく演じられる品性と浮世離れした存在感は、荒牧さんの素晴らしいポテンシャルだなと感じます。

■北条政子
女性であるはずの北条政子が一番違和感がないと感じたのはメイクの影響もあるのですが、荒牧さんが持つ和睦の性質や所作の柔らかさに、女性的な色があるからかなと感じました。大和撫子なのです。

■石出帯刀
ガチのちょんまげ姿の荒牧さんにうおおっとテンションが上がってしまいました。メイクはまんばちゃんのキラつやで、ちょんまげを結っている荒牧慶彦さんなんて、金輪際見れないかもしれない、ありがたい、と感じました。江戸のお涙頂戴義理人情のお話には弱いので、逸話自体もグッと来ました。

■桐野利秋
幕末のお話はやはり日本人としての意志を思い出させてくれますよね。刀剣の時代の終端、桜のように鮮やかな散り際の美学が大好きな日本人としては胸が熱くなります。唐芋侍節、レアすぎる。
年上の余裕というか、覚悟の演技ですかね。荒牧さんは年齢を重ねて色気が出てきていて、それが男性とも女性ともつかない不思議なニュートラルな色気ですね。役者、とりわけ2.5次元という偶像崇拝じみた出力が必要とされるポジションとしては唯一無二の要素なのだろうなと、このお芝居を通して感じました。


知ろうとするな、想いを馳せよ

他人は自分の見たいようにしか他人を見ない。そして、見る人の成熟度や立場によって自分という像の見え方は変化するんだと思います。
『織田信長』という男、多くの日本人、刀剣男士の中に強烈な存在感を残している男ですらそうなのでしょう。時にはワンマン社長、殿様、魔王、男色の変態、とその顔は様々であって、本人が没した今答えを知り得ることはできないのです。
つまり、『想いを馳せる』ことしかできない、想いを馳せて、自分の精神や価値観で偉人や他者を見ろというメッセージを感じました。

単独行で描かれていたメッセージは『全部てめえの見方だから』というある意味ではものすごく身勝手な理論のようではあるけれど、とても自責論的で自由と引き換えの責任でもあり、事実そうでしかないよなと身につまされる心地でした。
多様性や感性を尊重した、今の時代を反映した価値観であると感じます。
時代が時代ならば『女は嫁、母』『男は男らしく』のような型の中にはめこまれる在り方が、日本人には長く続いたように思います。しかし信長の生きた封建的な武士の時代でも、『織田信長』には見る人の数だけその顔があったのでしょう。

またこれはエンタメの世界に立つ表現者や、役者さんの立場にも重なると感じました。役と同一視されること、それを嫌がる価値観があることを私は知っているけど、見方を変えればそれこそが役者たる所以かもしれないと感じました。本人の自我が出ていたら"役者"ではなく"アイドル"や“タレント”に近くなりますが、アイドルという偶像も役者や女優たる一面であり、どれも間違いではないのかなと。

誰だって、それは路傍の徒花のような私だって仕事や様々な場面で同じ顔をしている事はなく、片一方の誰かの期待に沿えないことがあっても、事実でしかないのだなと思います。だましやがって!となじられるようなことがあれば、ある意味では誇らしいなと思います。他者が見たかった自分を勝手に見てくれたということですから、社会の中での役割を全うできたような気がします。

そうやって人々や物語とは、ひいては演劇とは、『想像力』という想いで自分を愛して、隣人の個性を愛して、役を愛していく。目には見えない愛で満たされることなのかもしれません。
想いを馳せる。仲間たちや敵方ですら、ただ感じて想うこと。混じりけのない思考の中で想うとはつまり孤独であり、行=修行、まさに単独行という銘が公演に刻まれた所以なのかもしれないと感じました。

孤独が人を強くさせるってあると思います。孤独ではない自身の現状を振り返って感謝し直す行為というか、孤独は精神が強くないと耐えることができないと感じますし、強さとは現状や周囲を取り巻く存在への感謝を落とし込んで噛み締めることかなと思います。人は生まれてから命尽きるまでみんな孤独で、でも独りじゃないと気がつけることが、人生という行の中で悟るべきひとつなのかもしれません。
孤独とは、独りの時間に周りの人を想う温かいものだと私は捉えています。


刀ステの光の地獄

刀ステに私は光を感じるけど、それが本物の光なのかはわからない。
でも悲痛な叫びの中でもほのぼの羊羹どんぐりタイムでも、行動や目的の先には光を追い求めている者たちのお話なのかなっていうのは感じています。
光の地獄を描くという感じで、アート的でもあるから、やっぱり生の舞台に合っている。そういった演劇のパワーや生きる葛藤の魅力が詰まっているんだろうなぁ。

刀ステで紡がれているのは『物が語るから物語』
刀が命を宿して、まるで人のような自我が芽生えて、人間臭い感情を持ってコミュニティ社会と秩序が形成された物語という印象です。
外殻は神秘的だったり綺麗だったりするけど愛も悲しみもとても等身大で人間的です。刀を人たらしめる身近さがあり、そんな彼らを愛して楽しむ、緻密で丁寧で優しい、弱者の痛みがわかる人の本と思うな。
付喪神からこばれ出るセリフや散りばめるきらめきには『刀剣乱舞』らしい魅力が輝いているけれど、その先に繋がるのが私から見るに人間的な感情なので、付喪神としてのあり方が人間に近いんだけど、ずっとファンタジーで綺麗なのにめちゃ人間臭いというふしぎさのハーモニーです。

演出脚本家さんの色が出ていて『刀剣乱舞』という自由度の高い媒体らしさを感じます。刀ステって全体的に人を想ってていい子でいたいし、そうあろうというバイアスに全体が引っ張られて展開していく印象で、愛別離苦のストレートなショックががんって入るし救いもシンプルで光がある。

確立した色があるのはとても素晴らしくて、でも明るい色ではなくて、演劇色は玄人向けだけど価値観、核の部分は光なんだと思います。

今回の単独行は褪せたオレンジ色だったのかな。
観劇後は、荼毘に付す煙があちこちで立ち込めたかつての京の都にも歴史という大河の流れが走っていたんだなと、宿へ戻る道すがらに想いを馳せながらお散歩しました。
道の端々に出会いや救いがあって、それがたった露の一粒のいのちでも日本人の魂は刀剣と共に導かれて、形を変えて人の心に染みて物語となるのかな。それが生きるということで、神話の時代から日本人と共に歩んできた刀剣、そして刀ステや荒牧慶彦さんが紡いできた軌跡が、演劇という形で人を癒すんだな。


感想まとめ

まんばちゃんと荒牧さんは修行中も過酷な労働条件だな!と感じました。

そしてそれは観客が求めるものを与える愛であり、末満さんと荒牧さんは商売人で、腹括ってて、かっこいいなと思いました。
演劇好きな人が作ったんだろうなって思うけど、求められている味を提供するプロの目線もあって、愛や悲しみや物理視覚演出の伝わりやすさと光を追い求める清らかさは相変わらずぶれず、たしかな色が出ている素敵で不思議な演劇でした。

全然界隈の者でもないのでおかしなことを言ってるかもしれないけど、私は舞台『刀剣乱舞』シリーズを拝見していく中で、どうして山姥切国広がこんなに感情的に振り回されているのか不思議でした。
なぜかというと、誰かと別れたり亡くなった時に、嘆いたり泣くことが好きではないからです。それって生きてる間に本気で向き合えてなかったってことでしょ、全力で向き合えてたらやりきったって引きずらないはず、いつだって別れる覚悟を持って接するべきだ、と厨二病のように考えて生きてきたので、山姥切国広にあまり共感できなかったのです。

しかし三日月宗近に振り回されている山姥切国広の人間的な感情を見ているうちに、自分の考え方は他人に期待しない、人の繋がりなんてすぐに切れると思って張っている保険になってしまうのかもしれないと気づかされました。

日本の漫画やアニメを好む子たちって、いやそれに限らず日本の若い子達って、自分の個性や好きなものを否定されてきた排斥の経験が多いのではないかな。
ゲームなどのポップカルチャーを原案にした舞台で、荒牧さんが舞台の上で輝いて、ええやんて周りに言われるたびに、荒牧くんをええやん、て思ってる子達は自分もええやんて言われてるようなキラキラと安心感に包まれるんだろうな。かくいう私もそのひとりです。

自分のことを肯定するのが苦手な子って、いろんな家庭環境とか、これまでの人間関係とか事情がたくさんあって、そういう子たちは組織的、保守的な教育を施されてきた日本にはいっぱいいるから、優しくて綺麗で傷つきやすくて敏感な部分があるかもしれない。

自分が自分が!て前に出るんじゃなくて、荒牧さんたちの活躍を見守るだけでもその時間が尊くて、本当の意味で人生ごと励まされる子はたくさんいるんだろうな。
荒牧さんはファンのみんなのことを本当に生かしていて、キラキラの希望の一番星で、みんなの王子様なんだな。

『人は心の第二次性徴期を飛ばすことはできない』という言葉は臨床心理士の知人の受け売りですが、反抗期を飛ばすことはできないし、実年齢が何歳になってもこの段階を経ていない人は現代社会で多くいるそうです。この成長とは、自他の境界の分離だと私は考えています。

刀ステのお話は、あくまで私の感じ方ですが、価値観や救い、苦しみ方、怒りのポイント、意外とシンプルでとても優しい構造をしている。そういう純粋に懸命に生きている人たちの救いの空間、光の地獄を描くシリーズであるのかなと。

なんでそんな黒まんばちゃんが持て囃されるのか、現地で観劇して自分の目で見ても私はわからなかったけど、どこかでファンのみんなの中に住んでいる『自分の写し』だからかもなぁと捻くれたことを思った。概念とビジュがビビっと来て刺さるだけかもしれないけど。
でも黒いまんばちゃんが抱きしめてもらえたとき、それはファンのみんな自身が抱きしめてもらえたのかもしれないし、あの瞬間の優しさが傷ついた経験を持つ子達の心を包んで救ったのは事実だろうな。
黒まんばちゃんが抱きしめられたことで、自己主張できる、嫌なものは嫌と言える、これが私の想った結果ですと胸を張って言えて他者の意見も認めることができる、そういう強さの一助になるのかもしれません。

そんな想いを馳せながら、荒牧慶彦さんという漢をもっと好きになってしまう。
舞台『刀剣乱舞』山姥切国広 単独行 -日本刀史-、とてもやさしいお話でした。

私自身はまるで演劇素人ですが、種類を問わずエンターテイメントからいただける"没入感"ともいえる不思議な澄んだ空気感が大好きで、その数時間は俗世の雑念を何もかも忘れて集中できる。そういった特有の空気を持つものが質の良いエンターテイメントだと考えていまして、天照大神を岩屋戸から引き出す力があるほどの、ある種のトランス状態や瞑想みたいな。
普段はどうしても脳がいろいろ勝手に考えてしまって疲れるけど、質の良いエンタメにはのめり込んで、夢の世界に小旅行できるところが好きです。
人は歴史の中で、絶望から立ち上がり生き抜くためにエンターテイメントに希望を乗せてきたんだと思う。

私的にコロナ禍にたまたま沼った荒牧慶彦さん達からいただける供給は最高の活力です。
特に界隈の方々、エンタメや演劇は遊びの延長だから不要不急だという扱いを受けたり、心無い批判もあって苦しい時代を経験したと思います。2.5次元なんかは特にまだ発展途上の分野ですから、笑われたり途中で夢破れる悔しい経験だってあったかもしれません。
でも何かに人生かけて取り組んだ人って本気でかっこいいと思います。
荒牧さんのような2.5次元というジャンルで生きていくと腹を決めて、界隈全体を引っ張る気概がある漢の存在のおかげで、オタクはだいぶ救われてます。
これからもご活躍をお祈りしています。

舞台『刀剣乱舞』山姥切国広 単独行 -日本刀史-は11月12日(日)まで。また舞台『刀剣乱舞』は2024年6~7月、東京・大阪・福岡にて新作公演の上演が決定しています。


舞台『刀剣乱舞』山姥切国広 単独行 -日本刀史- 公演概要

【日程】
2023年10月7日(土)~11月12日(日)
【劇場】
東京:天王洲 銀河劇場
京都:京都劇場
福岡:キャナルシティ劇場

https://stage-toukenranbu.jp/stage/


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