神とは、宇宙とは。愛とは?

神も、宇宙も、その本質は愛である、とよく言われるが、そもそもその愛とは何なのか?が感覚的によくわからなかった。

私が感じる神や宇宙には、ジャッジメントがない。
この世には善も悪もなく、ただ全てが普遍の原理によって、物理的法則によって生じたり消えたりする。

まさに、その物理的法則こそが宇宙であり、神である。また、その法則が適応され、表現される原子・分子・素粒子そのものも神であり宇宙である。

神はサイコロを振らない、という有名な言葉があるが、私の中ではサイコロそのものが神であるというような認識。

そういう捉え方をしているので、急に「神の本質は愛」とか言われるとよくわからなくなる。

なんで、宇宙と繋がるとお金持ちになったり、天職を見つけられたり、理想的なパートナーができたり、幸せになれたりする、ということが主張されるのか?

ジャッジメントがない世界では、
お金持ち、天職、パートナー、幸せ、も
貧乏、合わない仕事、孤独、不幸、も
同じ価値ではないのか?

温度の高い低い、
身長の高い低いみたいに、
それぞれただの何かの度合いでしかない。

それなのに、どうして宇宙とつながったときや
神に期待するのは
感情的に快い方向性なのだろうか?

今、こうして書き出していてふと気づいた。
順番が逆だったのか。

宇宙や神の法則にジャッジメントはない。
それはそれとして。
神を感じたり、宇宙と繋がったような状態になると、私たちはお金持ちになったり幸せを感じるような法則になっている。

その現象を、神の本質は愛、と呼んでいるだけなのだ。
愛、というのは人間的な表現で、私たちにとって都合が良くて快いと感じる方向につけられた、ただの言葉。

なるほど、私は「ジャッジメントがない」を
ランダムである、と勝手に誤解していたのか。

本当はどっちでもいいのだけれど、
物理法則がたまたま、大いなる存在を感じて生きると一定の状態に収束し、その状態を私たちが幸せと呼んでいる、という設定になっているだけか。

なんでその設定にしたの?
なんでそういう法則にしたの?といちいち突っかかる必要もないのだ。

神に触れると人は幸せになる。
知るべきはそれだけでいいんだ。

ジャッジメントがない、というのは
その原理法則は絶対であり、不変かつ普遍であるということ。ただそれだけ。

なるほど、たしかにそれなら神の本質は愛である。

なぜなら、私たちが神の本質に愛と名づけたから。
最初から愛そのものがあるわけではない。
愛と名づけた人間のジャッジメントをもたらしたのも神の御業だ。
神は自らに愛という名前を与えたのだ。

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