いうて、そんなに自分のこと好き?

自分を大切にしましょう。
自分を愛しましょう。
自愛自愛自愛。
セルフラブセルフラブセルフラブ。

ここ数年でこういう文言が本当によく目につく様になりました。
スピリチュアル界隈でも自己啓発界隈でも、女性性界隈でも。

自己肯定、自己受容は生きやすさの土台。
私もそれは実感があります。
でも、なんかそれだけじゃない気がして。

幸せになりたいって思ってるのにどこか本気じゃない。
お金たくさん稼ぎたいって思うのに行動に繋がらない。
素敵なパートナーと暮らしたいのに、探す気にもならない。

いつも何処か本気じゃない。
本気で幸せになりたいなんて思ってない。
かといって、貧乏や病気、家族のいざこざや病気事故など、
不運や不幸は恐れている。

他人に嫌われない様に、求められる役割の人格を演じる。
情けないと思われる自分を、開き直って開示している。
守り、攻撃されないように牽制している。

なんかチグハグなんですよね。

自分を大切にしたい割にはできていない。
幸せになりたい割にはなれていない。

それって、本当は
別に幸せになりたいわけでもないし
自分を大切にしたいわけでもないんだなって気づいた。

多分私はそこまで「わたし」のことを好きじゃない。
本気でお金持ちにしてあげたいとか、
本気で幸せにしてあげたいと思うほど、
私はわたしのことを好きじゃない。

だから何をやっても中途半端。
それで、こんなに頑張ってるのに報われない!って拗ねてる。

なんてロス。不毛。

私は、「そんなに好きでもないわたし」と
それでもそんなわたしを幸せにしてあげなきゃ!と頑張る「私」に分かれてしまっている。
そして後者の「私」がついに反旗を翻した。

「わたし」は何をしたら満たされるのかばかり考えてたけど、
たぶんその「わたし」は何も考えてない。
幸せも不幸も感じていない。ただ、ありのままを受け止めるだけの器官。メモリー。
意識の「私」は、そんな「わたし」により良い経験とか感覚を与えてあげなきゃ!と頑張っていたけど、「わたし」はそんなの別に望んでいない。

魂の「わたし」はただ「在る」ことしか求めてないし、
「求めている」という意識すらない。
だから人間の「私」は魂のわたしなんて気にしないで生きればいいのだけど
頭で考えたことしかないから、何が欲しいのか「私」はわからない。

私の分離。

何をしたら報われたと感じるんだろう。
そもそも何かを求めなければ、与えられ、満足しないのだろうか。
とすれば、幸福は欲の上でしか存在しないのだろうか。
ほんとうの欲がわからない場合はどうしたらいいんだろう。

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