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ぐるぐると考える

ぐるぐると考えてしまっている。何か言葉にしようとして、整理しきれずに何度も書いては消ししている。昨日発表があった「ルックバック」修正の件である。

https://twitter.com/shonenjump_plus/status/1422029631507427331?s=21

「偏見や差別を広げる可能性のある表現」が作品内にあることをどうするか、という点に対して言葉を紡ぐ人が多かった。

漫画を始め創作物の中で扱うのが難しいのが「病気」だ。

「白血病」や「癌」、「エイズ」など様々な病気を描いた作品がかつてあった。しかし最近ではその病名をふせて作品を作るように、と促されることが多い。たとえば闘病の末亡くなる展開になったとき、同じ病気の人が読んだらどう思うか?感動的な流れにすればするほど罪が深くなる。

そう思えば、頭の中で考えた話に現実でも存在する病名を与えてエンターテイメントを作るということは、もう難しい段階に来ている。

頭の中で考えた話と書いたが、現実にある誰かの経験ならいいのか?それもまた違う問題を示す。

作中の「特定の病気に見える表現」が現実の患者さんを傷つけ偏見を広げる可能性がある・・・そのことは深刻に受け止めるべきだ。その「病気」自体にスポットライトを当てて丹念に描くのなら話は別だが、「理解し得ない他者」として現実を想起させる「病気」、そして「事件・人物」を扱うことは問題が多い。

太平洋戦争をモチーフに作られたたくさんの映画やドラマ、東日本大震災、地下鉄サリン、ハイジャックやテロ、飛行機墜落事故、、、社会に衝撃を与えた事件の多くはそのあと形を変えて物語になる。なってしまう。そういう態度を「ネタにする」と言うが、「やっていいのだろうか?」と思うことがどうしてもある。

物語にした瞬間に、美男美女に演じてもらい美しく盛り付け美味しそうに食べてもらう態度にどうしてもなることを知っているから。

ひどすぎる事件に傷つき、こんなことがあるのかとショックを受けた多くの人がいる。当事者とは違うところにも、大勢いる。

その傷を当事者じゃない側の人間がフィクションの創造性で新しい物語にすることは、その行為の意図とは別に違う痛みを生むのではないか。

このことを娘(10歳)と話したときに、「でもその事件にショックを受けて心が傷ついたなら、だれだって当事者なんじゃないの?」と娘は言っていた。

ほんとうにそうだろうか?

本当に私たちに当事者性があるのなら、それはやはり考え続けることとセットなのではないか。あの犯人でさえも自分の一部であったのではないか、と。どうやったら犯人を「単なる殺人鬼」と思わずに内側に認められるか、と。防ぎようのない厄災とせずに、だれにもその魔の瞬間があると考え続けることができるか、が必要な「if」の態度なのではないか。

特定の事件を連想させなくても、「ルックバック」のメッセージは出せたと思う。誰かに焦がれて、憧れて、支えられて、自分を磨いていけること。背中合わせにお互いを守りながら、自分の人生を生きること。振り返ればあなたがいること。

作者が修正を決意した苦しさを思えば、同業者が何かを言うことは余計なことと思うのに、言葉を重ねてしまって申し訳ない。

鎮魂のかなわない悲劇はある。行き場のない気持ちをそのまま持ち続けることが大事なこともある。

現実の事件は簡単に過去にならないということ。
その痛みに触れて良いのかを、自分も考える。

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