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私的育休日記9 おもちゃをつかむ娘

もう少し前のことになってしまうが、バウンサーに取り付けたおもちゃに娘が手を伸ばすようになり、それをつかめるようになったことに痛く感動した。生後3か月位だったと思う。1か月の頃は「おもちゃ」と認識していたか怪しかったのが、4か月を過ぎた今は、おもちゃを引っ張って取り外せるようになってしまったのだから、子どもの成長は一瞬のうちに過ぎてしまう。

おもちゃを手にした娘の姿を見たとき、成長の感動とともに私の頭をよぎったのは「もしおもちゃ渡していなければ、娘は〈手で握る〉という経験を巡り会えていなかったかもしれない」という漠然とした直感だった。「何かを握る」という動作の習得がいち早くできたということではない。偶然のめぐり合わせで目の前に現れた対象に、「手を伸ばそう」という意識が働いて、結果つかむことができた。その一連のプロセスは、おもちゃを準備しなければ、成立しなかったかもしれないのだ。赤ちゃんの一挙手一投足は、いちいちこうしたことを振り返らせてくれる。

目の前に偶然何かが現れて、それを掴み取ることができるか。

これは何も赤ちゃんとおもちゃの関係だけでなく、人生のあらゆる場面で置き換えの効くイメージだ。何かの好機は偶然訪れるものだし、それをつかめるかは自分次第だ。しかし、つかめたとて自分ひとりの成果なのではない。裏では必ずお膳立てしてくれる存在がある。おもちゃを目の前に差し出してくれたり、おもちゃをつかんでいる自分の姿を見てくれる人がいて、世界ができている。人生の線は自分の直線なのではなく、色々な人の人生と交差してできている。上から眺めると、その交差点に気づく。

何か役に立つのかと言われれば覚束ないけれど、こうした些細なことに気づけることは自分の人生の中の大きな喜びであることを知る。これは一重に、育児休業によって娘と徹底的に向き合えるおかげなのだということも。

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