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私的育休日記11 育休の由無し事

「育休をとって良かったか」をずっと考えながら過ごしている。どの立場から、どの視点で考えるかによって、答えはバラバラで一概に結論づけることはできない。けれど、育児に関わることで得られた(湧き上がる、という方が正確)充足感は何にも代えがたく、一生で今しか得られないものと感じる。娘が生まれて間もなく5か月。感じたことを少しだけ整理する(結局、整理は全くできてない)。

◎育児をできて良かったか
→間違いなく良い。新生児期、いくら寝かしつけても泣き止まない中でうんざりしたり、外出先でぐずって勘弁してくれよと思ったりすることもある。それらは子の成長と笑顔が帳消しにしてくれる。

ただし、授乳を殆ど妻がこなしている上、寝かしつけも殆どが添い乳なので、育児負担の比率は妻の方が遥かに大きく、娘の体調への感度も妻の方が大きい。その意味で、育児をできて良かった、という現時点での私の心象は妻の支えで成り立っている部分が多分にあって、ワンオペだったら変わっただろう。

また、育休をとっていても趣味にハマって育児放ったらかしの夫の悪評が、Twitter上にごまんとある。私も通勤をしなくなったことを理由にランニングを始め結構ハマっているのだが、妻がそのことを疎ましく思っていないか問われると、自信はない。個人的には育児の合間のリフレッシュのつもりだけれど。

つまり、育休をとった上で育児を経験できて良かった、と私が感じている点については、私の育児へのコミットメントに基づいて述べていて、これがワンオペになったり、妻との配分がアンバランスになると、途端に不満感が増し、育児嫌悪が生じるだろうことは想像に難くない。

また、娘が健康に育っていることに依る部分が大きいという点も多分にあるだろう。私の妹には障害があって、母から妹の育児に感じた不安を小さい頃から聞いてきたが、もし子供に障害や疾患があったとすれば心配、自身の育児を振り返る余裕はまだなく、私の感想なども悠長に感ぜられると思う。

これらを考慮に入れた上でだが、育休をとらずに育児へのコミットが最小限だったと仮定しよう。傲慢な私なので「稼いでやってるんだから育児はお任せ」「こっちは仕事してるのに、これもあれもやってないの」とか文句をたれていただろう。育休をとれば泣く子を寝かしつけるのにどれだけ苦労がいるか。

経験で染み付いた実感は、想像や文字情報の比ではない。育児に関しては、育児をすることによってしかパートナーと対等に物事を言い合えるようにはならないという印象を今は抱いている。というか、育児を経験できたおかげで、育児について言葉を交わす権利を持てたというのか。

となると、育休万歳となるのか。それが100%そうでもない。もちろん、育休の制度の存在そのものには、全面的に賛成するし、制度のための議論と闘争をしてくれた先人には感謝だし、男性育休の取得率はもっともっと上がらなければならないと感じている。その上で、

◎仕事を離れる葛藤はなかったか

→これが私には結構あったし、今もある。育児での充足感をもってしてもなお余りある、というか別種類の悩みなんだろう。金銭的なものではなく、キャリアが停止してしまうことへの不安だ。書いてしまえばエゴイスティックなものなのだが、自分の人生が中断させられてしまうかのような不安感である。

仕事が楽しかったのだ。若手から中堅ポジションになって、力量が試される時期だと自分では捉えていた(確かな実力があればこんな不安もないだろう)。人生の長いマラソンを走る上で小休止は必要かもしれないが、今が適切な時期かと言えばそうではなかった。

しかし、翻ってこれは、働きながら出産した多くの女性も同様に抱えてきた悩みのはずである(今では少なくない数の男性も)。個人的に絶望して嘆くのではなくて、悩みを共有し、組織を、ひいては社会を変えていくことにつなげたい。気持ちだけでもそちらに向けたい。子を悩みのタネにしたくない。

これも逆の場合を仮定する。育休をとらずに仕事に邁進、出世階段を登って個人的には満足かもしれない。しかし、妻にとって、子にとって、社会にとって、害悪に映る可能性の方が高い。そのことを知ってもなお、清々しい顔で人生を振り返れるだろうか。そう逆算してみると、自分の悩みは行き場を失う。

かと言って、今の自分に渦巻く葛藤を否定すべきでも矮小化すべきでもない。悶々と燻らせて忘れずにいればいいと思う。折り合いがつくかどうか分からない。何かの原動力になればいいとも思うし、けれど無理矢理燃料にしてしまうのも違う気がする。

もし同僚から「育休をとるべきか?」と勧められたら、私はパートナーと育児について対等に建設的に話し合える関係を作るためにも「とるべき」と答えるだろう。仕事を離れることでの個人的な悶々は、決して小さくはないけれど、とは言えパートナーとの先の長い関係のために優先するほどではない。

けれど、私が育休を1年とることを色々な人と話す中で「お金がないので夫は働く」というケースをしばしば聞いた。カツカツではなくても、貴重な稼ぎ頭なのだろう。私の場合、夫婦で同じ職種のため、平等に休みをとろうという結論にスムーズに進んだ。
少なからず貯蓄があり、また育児休業給付金だけでも大幅に生活水準を下げないで済む。これは大きいことだ。

◎育児休業は特権ではないか

そう聞かれたら、どう答えるだろう。認めたくないが、私のケースは少なからず特権的な面があるかもしれない。
娘が安らかに遊んでいながら、夫婦揃って自宅にいるとき、「働かなくていいのか?」と疑問が湧く。汗をかいて宅配便を届けてくれたお兄さんを出迎えたとき、私は貴族だったのかという錯覚に陥ってしまう。この投稿もいやらしいが、偽らざる実感だ。脳内の私の1人が「お前も働けよ」と言う。

育児も家事もしているし、育休に入る前と同じほどに忙しいときも少なくないが、やはり社会人になって以降染み付いた習慣によって身体は違和感をもよおすようなのだ。これは「キャリア云々」とかではなく、単に働いていないことに対する脊髄反射のようなものだと思う。

寧ろ「キャリア中断」への将来的な不安なんかよりも(そんなものどうせ大したことない)、働いていないことに対する反射的な違和感の方が大きいのかもしれない。書きながら気づく。社会人になって以来、社畜的な一時期も経て身につけた体力・フットワークを失うのを、身体の方が恐れているような。

どこか「労働は美徳」という価値観が根深く染み付いているようだ。もちろん、育児が労働でないわけではないし、東京都が「育業」という呼称を採用したことも、小池が人気取りのためにやったことは気に食わないが、社会にとってはポジティブな面があると思う。

脱線したが、「育休は特権ではないですか?」と自らに問うとき育休を満喫している自分は「確かに特権かもしれない」と考えてしまう。そして「働いて稼いでからだよね」と思っていると、「育休とらないでもいいよね。人それぞれだよね」と安易に返答しかねない。それはまずい。

育休は特権ではないか?と問われたときに、「今はそうかもしれないが、どんな人もとれる制度にすべきだよね。むしろ義務にすべきだよね」と言えないといけないと思う。なぜか。育休が特権のままになり、取得が難しい家庭でワンオペ地獄が生まれるからだ。制度の特権的な部分は解消されるべきだからだ。

そして育休制度の特権的な側面を削いでいくためには、誰もが実際に取得してゆくのが1番近道だろう。だから、個人的な実感とは距離を明けて、「誰もが取れるべきだし、できれば取るべき」とした方がいい。その根拠はやりがいとか充実ではなくて、負担感の分かち合いに置かれるべきだと思う。

私個人としては、育児を通じて子から貰っている充足感は、仕事に還元できるとか何かに役立つとか考えてはいない(実際には役立っているかもしれないが、娘を道具として何かをしたくはない)。同様に、育休も何かに役立つと喧伝されるべきではないし、子育てに不要なヤリガイを煽られても嫌だ。

子はとうとい存在だ。しかし、不快なときもある。育児はとうとい作業だが、負担は大きく1人で担いきれない。だから育休をとって分業することが必要だ。単にこれだけの原理でよくて、それを可能にするために企業が仕事を減らすとか、人繰りを柔軟にするとかいうことが常識になればいいのにと思う。

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