私的育休日記13 泣き声のこと

親になるとは一人前の大人になることだ。

親になる前はそう思っていた。
違った。人として、まだまだ未熟だということを突きつけられるばかりなのだ。というか、「大人」というのは幻想で、人間なんてどれだけ年を重ねようが、バカでダメな生き物だということを痛感する日々である。いくら偉そうなことを言ったり書いたりしても、楽しいことや美味しいこと気持ちいいことからは自由になれないし、不快なものは避けたいと思う。こうしたものから自由な人は「大人」ではなく「聖人」と呼ぶべきだ。

私が依然聖人でないことを痛感するのは、娘の泣き声を聞くと我慢できなくなるときだ。

とりわけ公共の密室空間にいるとき、周囲への迷惑を勝手に想像し、焦りからストレスが溜まっていくのを実感する。大抵はミルクを飲ませればよく、今は缶入りのものが売っているから、父親の私も泣き止ませることはできる。娘と出かけるときは大抵妻と一緒なので、食事中に泣き出したときは、大抵片方が抱っこして、片方が食べる。あるいは、片方が授乳して、片方が食べる。

娘とて、両親を困らせようとして泣くのではない。不快だから泣く。充分承知してるつもり。でも、私の中の交感神経がピキンと反応して、イライラが募る(神経のせいにするのもよくないね)。

地獄だと思ってしまうがバスの中。
混雑時、ただでさえベビーカーがスペースをとり、勝手に迷惑を想像してしまう。その上泣かれると、ひたすらに「勘弁してくれよ」と祈るしかないのだ。停車時間の短いバスにあって、ベビーカーからおろして抱き上げるのは危ない。幸い、長時間乗車していることはないので、我慢が必要なのは長くて10分くらい。たったそれだけの時間が、無限に感じられる泣き声の魔力。我が子に我慢を強いることが、生物として苦痛なのかも。

「このストレス何なんだろうね」
と妻に相談した。

「普段、他の赤ちゃんの泣き声を鬱陶しいと思っているのでは?」
という回答。

それに対して、私の脳内から反論。
「俺はそんな嫌なやつじゃないぜ!赤ちゃんが泣いてもへっちゃらだし」

一方、正直そうなのは私の体、
「うん、鬱陶しいと思ってるかも!でも我慢しているんだよ。我慢って大切だろ」

脳の声と体の声、どっちが正しいのだろう。

正直に白状しても、私は赤ちゃんの声が鬱陶しいと感じた記憶がない。というか、泣き声を聞くたびに、どちらかといえば、「親御さん大変やな」と思ってきたように思う。しかし、妻から「普段から鬱陶しいと思っているのでは?」と聞かれたときに、「ギクッ」と図星かのような感覚がしたのも、事実である。だから、脳の声も、体の声も、否定することはできない。私は脳も体も大切にしてあげたい。

脳と体という雑駁な分け方が妥当かはさておき、体は脳よりも正直だ。脳は嘘をつけるが、体は反応してしまう。私は赤ちゃんの泣き声に対して、ストレスを感じてしまうのだろうね。でも、それを脳で「へっちゃらだし」と上書きするのもまた大切だと感じている。そして、上書きを積み重ねることで、いつか体の反応も騙してしまうことができるかもしれない。そのとき、私は我が子の泣き声に関して、完全に動じなくなるのだろう。その時まで、果たして娘は泣き続けてくれるだろうか。いや、無理に泣く子でいる必要はないのだけどね。

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