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ぎっくり首と蜜

首に電流が走った。
先週の土曜の夜。
冷蔵庫の奥に見つけたちょっと良いマスタードの瓶を開けようとした時だった。

「ちょっと良いウインナーを買ったからには、ちょっと良いマスタードでいただきたい」

そんな小さな欲が、雷槌のような痛みを伴って左肩を襲った。

自分の体が一瞬透けて見えた。
雷に打たれた時や、ぎっくり腰をした時に「骨」が見える表現が日本人には馴染みがあるかと思うが、あれはちがう

正確には「筋肉」が見える。

痛点を中心として同心円状に、自分の筋肉が痛みの強い部分からグラデーションで見えるのだ。
僕は左首から肩にかけての約20cmの筋肉が損傷したことを、感覚ではなく、自分の目で確認した。


それから、一つ一つのアクションをゆっくりと晩酌を始めた。

マスタードは再び冷蔵庫の奥の方に戻した。
ケチャップとマヨネーズでちょっと良いウインナーをいただきながら、撮り溜めたバラエティ番組を観た。

ウインナーはケチャップとマヨネーズで十分美味い。
マスタードなんか初めからいらなかったのだ。


ストロング系の酎ハイは、モルヒネのように痛みを和らげてくれる。
ということもそんなになかった。
やっぱりずっと痛い。

僕はソファーからベッドに体を移し、スマホで病院を探した。
筋肉や骨については今まで不便しない人生だったので、「整体」や「整骨院」等の違いはよくわからない。


とりあえず「新宿 ギックリ首」で調べてみる。

すると「次の検索結果を表示しています: ぎっくり腰 新宿」と、ぎっくり首なんてものはないことをGoogleに諭してもらった。

恐らくぎっくり腰を治せるところはぎっくり首も治せるだろう。
ざっと色んなページを眺めてみると、整体ではなく整骨院の方が治療という観点ではベターな印象を覚えた。


さて、どの整骨院に行こう。

リスティング広告(検索した時に上の方に「広告」として表示されるページ)を使っている整骨院は多分良くない病院だ。
何故なら、口コミや通院のお客さんだけでは集客を見込めていないから。
僕だって伊達にIT企業で働いてはいないのだ。

そんな偏見に満ちた意思と、会社の近くにあるという理由で、僕は1件の整骨院を予約できたのであった。

「明日には少し痛みが収まっていてくれ。なんなら治ってたら嬉しいな。頼む…」

そんな希望を抱きながら、僕は眠りに落ちていった。


***


翌日。
やっとのことで新宿の整骨院に到着した。

首はひと晩かけてカッチカチに固まった。

首の可動域が狭まったことで、ちょっとした動きで首を中心に上半身全体に痛みが及ぶようになった。
治るわけなんてない。そんなことは知っていた。

エレベーターに乗り込み、8階を押す。
この雑居ビルが僕の一縷の望みだ。
脂汗をにじませながら上昇すると、エレベーターは整骨院のある階に到着した。

入り口を抜けると、こじんまりとした明るい受付があった。
爽やかな香りがして、ウクレレ調のJ-POPが流れている。
6席ほどある椅子には2、3名の20代の女性が座っていた。

正直驚いた。
ホームページを見て、手練のおじさんが経営していそうな腕重視の整骨院を予約したつもりだった。
しかし、何名かいるスタッフは若いお兄さんばかりで、皆ちょっとずつイケメンの感じだった。

「緒方さん、こちらです!」

僕を担当してくださったおそらく年上のお兄さんも、例に漏れずちょっとイケメンだった。
肩透かし感を覚えつつも、少し話してみると自信のある雰囲気が感じられたので安心した。

初めは両肩に電気治療を20分。
ビリビリというよりは、電気を当てられた部分がグイッグイッと自分の意思と反して動くような治療で、なんとなく効いている気もした。

次は鍼灸(しんきゅう)。
鍼(はり)は硬直した筋肉をほぐす効果があるらしく、まさに今の僕にうってつけの治療だ。

ただ、僕は針に極度の恐れを抱いており、健康診断の採血の際には毎年
「痛いですよね?」
「どこ見てればいいですか?」
「ベッドでしてもらっていいですか?」
と3分ほどごねる。

うつ伏せになり、あまり痛くはないという前情報はあるものの、嫌だなぁと鬱々していると、「じゃあ針入れていきますねー」というお兄さんの声。

え?

目の前の光景に声が出そうになった。

股間めっちゃ近っ。

施術用の細いベッドでうつ伏せになった僕の眼前で、お兄さんはヤンキー座りをしているので、股間とアディダスのスニーカーがほぼ目の前にある。

これは鍼灸治療する人全員この股間距離なのだろうか?
人生で最も近い顔との股間距離に、僕は思わず釘付けになってしまった。

あっという間の鍼灸治療、マッサージを終え、受付に戻るとさっきとは別の20代の女性たちが静かに座っていた。
そのうちの一人が会計に立つ。
その顔をよく見ると、やはり心なしか頬が紅潮していた。

その時、僕の中の点がすべて繋がった。

彼女らは、「治療」という免罪符と5000円札を握りしめて、月に何度かこの整骨院に通っている。

ムーディな香りと音楽に包まれながら、ちょっとイケメンのお兄さんに全身をマッサージしてもらいつつ、体と心を満たしているのだ。

パートナーに対し友人に愚痴るほどの不満があるわけでもないし、関係性は悪くなく、そこそこ上手くやれている。

しかし、刺激がない。

かといって、性風俗やホストに通うなんてことはもってのほか。
金銭的にも難しいし、それよりも何よりも門をくぐるほどの勇気は持ち合わせていない。

そんなニーズを完全に汲み取った商売が「整骨院」なのである。
密で蜜な空間がここにはある。



もちろん、僕はその欲求や通院を否定するつもりはない。
むしろこのビジネスの素晴らしさに感動してしまった。

「治療」するという目的のもと、最小限の罪悪感で、ちょっとイケメンの男性に体を触られる(僕は男性だったので問題なかったものの、小さな個室で脇と胸の間を揉みほぐされたり、肌着まで脱いで首に湿布を貼ったシーンがあったが、女性のお客さんの場合はどうしたのだろうと考え込んでしまった)。

多少なりとも鬱屈を抱えた現代女性をちょっとばかし救う密な桃源郷。
それは、新宿の雑居ビルに存在したのだ。


***


「え、熊本出身なんですか??私3年間付き合ってた元カレが熊本出身で、熊本何度も行ったことあるんですよー!」

「へー、そうなんですね」

整骨院での治療から1週間後。
僕は散髪に来ていた。

それから2度同じ整骨院に治療に行ったが、経過は思わしくなく、自然治癒に切り替えることにした。
電気や鍼灸の効果があったのかどうかはわからないが、時間が経つにつれ、痛みはほぼなくなり、今では生活に支障がないまでに回復していた。

染髪、シャンプー・トリートメントも終わり、すっきりした頭で会計を済ませる。

「本日は寒い中ありがとうございました!熊本弁なら……『ならね〜!(=じゃあまたね)』ですかね!」

長髪のお姉さんはマスクをしたまま屈託のない笑顔を向けてくれた。

「(僕の桃源郷はここなのかもしれないな……)」

そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

挨拶もそこそこに、僕は年末の中野の町に溶け込んでいった。



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