お金の「価値」を裏付けるものは何なのか。
お金とは何か、といった抽象的な話の「答え」のようなものは、今でもまだそれなりの影響力を有しているテレビなどのメディアを介して、それらしい話が語られることも珍しくありません。
まさに、そういったテレビなどで語られる著名な学者や知識人の話が1つの「常識」になり、それが一般論として、多くの人に受け入れられるようになっていきます。
-テレビに出るような有名な学者、知識人がこう言っていた。
宗教や哲学など、確固たる「答え」にあたるものを明確にできない分野であるほど、そのような「見せかけの権威」に裏付けられた一方的な情報浸透が、次第に、世間の「常識」を作っていくことになります。
そして、それがあたかも「真実(正しい事)」のように受け入れられていくわけです。
その上で「お金」というテーマの話は「経済(経済学)」の範疇にくくられるのですが、この分野は、一見、明確な「真理」がそこに確立されている分野のようで、実は、決してそうではない不明確な部分が多いのが実情です。
経済(経済学)は「人間心理(群集心理)によって生じていく現象」を取り扱うため、そこには何らかの「傾向」はあっても、確固たる「真理」が必ずしも存在するとは限りません。
世間一般的に「常識(定説)」とされている事柄が、実は間違っているケース、それが決して真理とは言い難いケースもあるという事です。
その上で「お金についての学説」は、まさにその1つであり、大別すると、以下の2つの「定説」には異論の余地があります。
この記事では、上記における後者『お金の価値を裏付けるもの』について考察していきたいと思います。
***
前者『お金の起源』については以下の記事で考察していますので、ご興味があれば、こちらも併せて、お読み頂ければと思います。
お金の価値を裏付けるものは何か。
あえて説明する必要もない部分かもしれませんが、文明化された現代社会において使用されている「お金」は、紙(紙幣)や金属(硬貨)の形を取っていますが、それら自体に物質的な「価値」はありません。
そんな物質的な価値がない紙や金属が、実際に「お金」として使用できるのは、何故なのでしょうか。
-なにが、そこに「価値」を作り出し、そして、それを裏付けているのか。
そのように問われた際、現代人の多くを占める答え(回答)として想定されるものとしては、以下のどちらかではないかと思います。
また、ひと昔前の時代を生きていた人達の多数派の答えは、まず間違いなく、以下のようなものだったはずです。
実際に1900年代の大半は、各国の「お金」は金との交換(金兌換)が保証されていましたし、それ以前には金や銀などの貴金属そのものによって鋳造された硬貨(本位貨幣)がそのまま使用されていました。
そのような「お金」を使用していた時代の人達は、迷う余地なく、お金の価値の裏付けは「金」や「銀」などの貴金属と答えたはずです。
ですが、そのような「金本位制」および「銀本位制」などの制度は、1971年の米国リチャード・ニクソン大統領による米ドルの金兌換を停止するという宣言(俗に言う「ニクソン・ショック」)を皮切りに終わりを告げます。
以後、世界各国の貨幣制度(通貨制度)は、徐々に「お金」と「金(ゴールド)」を完全に切り離していくようになりました。
そして、金への交換などは一切行えない「名目貨幣」「不換紙幣」といった、現代における「お金」に至っているということです。
お金の価値の裏付けは「金」ではなかった?
周知の通り、その「価値」の裏付けと考えられていた「金(ゴールド)」との断絶を経ても、各国の「お金の価値」は失われませんでした。
世界各国において、商取引などに「お金(名目貨幣・不換紙幣)」がそのまま使用され続けたということです。
お金を「お金」として使用できるという事は、その価値が実際に「認められている」ということであり、同時にそれは使用者自身がその価値を「認めている」ということを意味します。
少なくとも「お金」というものに対して用いる「価値」は、それをお金として使用できるかどうかだと思います。
そんな「お金としての価値」が、現代のお金においてはどこから生まれているのか、その価値は何によって裏付けられているのか。
この「答え」として、わりと多く目にするのが、先ほども挙げた以下の2つです。
ただ、前者の「国家権力」および「強制通用力」に関しては『国が価値を定めても実際に価値を失っているお金(通貨)もある』という現実があります。
このような歴史的な事実も含めて、テレビなどのメディアで、わりと多く語られるのが、後者の「共同幻想(お金を使う人同士の共通の了解)」をお金の価値の裏付けとする考え方です。
-金(ゴールド)への交換が無しになった時点でお金の価値は幻想になったが、皆がその価値を認め合う事で、その「共同幻想」が価値の裏付けになっている。
これは、お金の価値における「共同幻想論」と呼ばれるものですが、世間一般的にも、お金については、このような考え方や解釈が、わりと浸透している傾向にあります。
お金の価値の裏付けは共同幻想?
また、このような考え方が1つの「定説」になっているのは、まさに「著名な人」が、テレビなどメディアで、これを吹聴している傾向にあることにも起因していると思います。
それをそのまま受け入れてしまっている人が多いということです。
有名どころで言えば、地上波のテレビ番組でも著名な池上彰さん、お笑い芸人で実業家の西野亮廣さん(キングコング)などあり、彼等は自身の運営メディアなどでも「お金」について、以下のような見解を示しています。
-お金に額面通りの価値がある。
-1万円には1万円の価値がある。
このような「幻想」を皆が抱く『共同幻想』こそが「お金に価値」の裏付けである。というのが、このような『共同幻想論』でお金を捉える人達の考え方です。
ですが、日本のお金も含めて、国家が発行している通貨には、先述した「強制通用力」という国家権力の保証が付いています。
ここで言う「国家権力」というのは、その国家内において、実質的な独占状態にある武力(暴力)を「法」に沿って行使できる権力のことを言います。
そして、その国のお金(法定通貨)における「強制通用力」は、その国家権力によって、額面の価値を実質的に「保証」しているわけです。
権力は「幻想」か。
よって「強制通用力」が備わった法定通貨による支払い(決済)に関しては、支払いを「受ける側」も、その支払いを拒否できない事になっています。
ただ、現実に国家が「強制通用力」を前提に通貨を発行しても、開発途上国や政権が安定していない国家などでは、その国の通貨が信用を得られずに「価値」を維持できない場合もあります。
ですが、それは先述したような「国家権力(実質的な独占状態にある武力)」が、その「強制通用力」を担保・維持できていないからに他なりません。
このような国家では、そもそも「国家権力」が機能しないため、そのような政府が発行する通貨の「強制通用力」も、当然ですが、機能しません。
つまり、国家権力が弱体している国家の発行通貨(お金)が、国家が定める「価値」を維持できない事ことが『正常に機能している国家権力こそが通貨の価値を裏付けている事』を証明していると言えます。
少なくとも「国家」や「強制通用力(国家権力)」が然るべき体制を成している限り、その法定通貨の「価値」には、しっかりと『実体のある裏付けが存在する』という事です。
お金の価値を裏付けるものは決して「幻想」ではない。
仮に「国家」という概念そのものが「幻想」であり、それが「実体のないもの」というのであれば、世の中の全てのものが「幻想」という理屈になってしまいます。
そうなると「道徳概念」や「法」なども全てが「幻想」という話になってしまうと思います。
法を犯せば国家権力による「拘束」と「刑罰」を受ける現実があり、この現実を決して「幻想」とは言わないはずです。
よって「国家による強制通用力によって保証されている価値」も決して「幻想」というわけではありません。
加えて、日本を含めた大多数の国では「所得(収入)」に対しては必ず「納税の義務」を負うため、これも大抵の国は「自国の通貨(日本であれば日本円)」でなければ納められないようになっています。
その国における「税(税率)」「物価」などは、その時代の情勢変化と共に変わっていくものですが、逆説的に言えば、法定通貨の価値(需要)は、その「物価」と「税」によって裏付けられています。
つまり、法定通貨(お金)には「国家権力」によって、その支払い価値(交換価値)をする「強制通用力」が備わっているため、実質的に以下をその「権力」によって強制することができます。
これらを十分に機能させられる「国家体制」が維持されている限り、その国の統治下にある「国民」は、それに従う他ありません。
「日常の商取引で合意に至らない別の通貨を使う」
「日本円ではない通貨で税金を支払う」
このような行為を強引にでも強行しようとすれば、社会生活の中では必ずトラブルになりますし、それでも「強行」を貫けば最終的には拘束、逮捕となります。
お金(日本円)を使う事にそこまでの強制を受けている自覚はないはずですが、現実として、私達はそれを国家権力に「強制させられている」という事です。
国家権力による「強制力」こそが『価値』を裏付ける。
逆に国家権力が絶対的な「強制力(強制通用力)」を維持できている限り、国内において言えば、その国のお金の価値も維持(保証)される事になります。
よって、お金の価値の裏付けは、実のところ『国家権力』であり、それが維持され続ける限り、その国のお金の「需要(価値)」が無くなる事もありません。
お金の「価値」とは、すなわち『お金への需要』および『支払い手段・納税手段としての必要性』であり、然るべき権力をもってすれば、その「需要」と「必要性」は十分に作り出す事ができます。
その一端が「納税の義務」や「脱税者への刑罰」などであり、これらの実行権力が国家に備わっていれば、その国が発行する「お金」には、確固たる「必要性」と「需要(=価値)」が備わることになります。
ゆえに、その「価値」や「裏付け」は、全くもって『幻想などではない』ということです。
***
国家権力をお金の価値の裏付けとする考え方は、実質的に「国家権力への信用」がその裏付けになっていることになるため、このようなお金の考え方は『国定信用貨幣論』と呼ばれています。
その上で、お金の価値の裏付けが「国家権力」および「国家への信用」であるなら、現代における金(ゴールド)やビットコインにおける「価値」は、どこからくるものなのか。
また、何故、ひと昔前のお金は金(ゴールド)との交換を保証し、あたかも「金」をその価値の裏付けとするような「金本位制」に基づいていたのか。
このような「お金」や「価値」についての更なる探求心が芽生えたのでしたら、以下のような記事も是非、併せてお読みいただければと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?