若きとて末を長きと想ふなよ無情の風は時を嫌わぬ、という辞世〜*落書きnote
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右翼の源流、遠山満の流れを汲み、侠客団体の組長から国会議員秘書になり、後に青年運動に生涯を捧げた友人の義父が老衰のため八十七歳で世を去った。
闘争と義侠に生きたが、我々普通の人間に対しては包容力のある男だった。一切の利権には目もくれず、少年少女のためにボランティアで空手道場を開くなど、人望も厚い人だった。
その世界のことは、おいらには良く解らないが「最後の侠客」といってもおかしくない生き方だったと思う。こういうタイプの男はもう出てこないだろうな。
普通なら、盛大に見送られるはずだが、本人が生前の意志で家族葬を望んでいたことや、コロナ騒ぎもあって、葬儀はひっそりしたものだったらしい。
ゴルフが好きな人だった。クラブハンディは3とプロ並み。実際のプレーは、喜々として少年のように弾んでいた。
プレーに一緒させてもらったある時、彼は、何とパー5のロングコースでアルバトロス、つまり第二打で奇跡的にカップインした。
規定打数(パー5=五打数)より三打も少ない。ホールインワンと同じで、めったに出ることはない。
さすがにこの時はお祭り騒ぎだった。この情報はたちまちクラブハウスに流れ、本人がプレーを終えクラブに帰ってくると、拍手と歓声の嵐が巻き起こった。
これは懐かしい思い出だ。
「良いスコアを出そうなどとは考えないこと。無念無想、目の前にあるボールを無心に打つ。それだけだよ」
うれしそうだった顔が目に浮かぶ。
家族葬が終わり、後日送られてきた挨拶状には、辞世の句が添えられたいた。
「若きとて末を長きと想ふなよ無情の風は時を嫌わぬ」
平家物語の冒頭には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常のの響きあり」とあるが、まさにそういうことなんだろうな。
さて、あすは晴れるのか?曇るのか?
*フォト ▽頂上まであと少し(立山)
*俳句巡礼 数ならぬ身となおもひそ玉祭り(芭蕉)
季語は「玉祭り=魂祭り」で秋。つまり、お盆、精霊祭である。亡き人の霊を迎え、しのぶ。
芭蕉のふるさと、伊賀市の「愛染院」に表掲句の碑がある。芭蕉の前詞には「寿貞が身まかり(みまかる=死亡すること)けるときゝて」と。寿貞については諸説あるが、芭蕉初恋の人、心の妻という説が有力。
「大切なおまえが一人さびしく死んでいったと聞いて、私のふるさとでおまえのために玉祭りをいとなんで霊を弔っている」。芭蕉の心情が色濃く出た作品。
寿貞が江戸「深川庵」で死んだのは1694年(元禄7年)6月。その年の10に芭蕉も「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という辞世を残し、寿貞の後を追うように、浪速「花屋」で他界した。
【松尾芭蕉=まつお・ばしょう】伊賀上野(三重県伊賀市)生まれ、江戸前期に活躍した俳聖、1644年(寛永21年)~1694年(元禄7年)
【俳句手控え】有名俳句には時々、難しい字が出てくる。たとえば「金亀子擲つ闇の深さかな 」(高浜虚子)は名句と言われる。
しかし「金亀子」は難解だ。学がいる。これは「コガネムシ」のことだが、そう読めなければ鑑賞不能だ。俳句は出来るだけ易しい字を使いたい。