心身統一 その先にあるもの

〈2021年4月に会員の皆様への通信に書いた記事です〉

4月は早々から藤平信一会長のテレビ出演(あさイチ!)もあり、新年度ということもあって、たくさんの新しい会員の皆さんにご入会いただいております。全員必ず見学や体験をして入会を決められます。元からの会員の皆さんが作り出す雰囲氣をみて、仲間になりたいと思っていただけたことと思います。元々の会員さんも新しい方も、皆さんありがとうございます。

さて今回は、皆さんに選んでいただき、共に道を歩むことになった心身統一合氣道、その道の先にあるものは何なのか、ということについて、あくまでも現在地点の私の目線で書いてみたいと思います。あくまでも私自身もその道を歩む途上の者である、という前提でお読みください。

前号にも書きましたが、私が合氣道を始めたのは、運動不足解消のため、という動機でした。ビックリするほど軽い、他にもいくらでも選択肢のあるような理由だったんです。皆さんも同じかどうか分かりませんが、始めた動機というのは、こんな風に結構軽いものが多いのではないでしょうか?はじめから人生をかけて道を歩む心掛けだった、なんていう方は相当奇特な人です。(プラスの意味にとってください(^^))

強くなりたい、健康のため、面白そうだから、姿勢を良くしたいから、礼儀を身につけ(させ)たい、などなど…
合氣道に興味を持つ動機は千差万別、人それぞれです。当たり前です。ですから、所期の目的は人により異なります。ですが、それらは合氣道を少し続けていれば、ある程度達成されるものが多いです。例えば健康になりたい、という人は、合氣道の稽古を数年も続けていれば、「健康」という目的はほぼ達成しているでしょう。毎週きちんと合氣道ができる、それだけである程度のレベルで「健康」と言えますよね。

また時々いるのが、黒帯(初段)になるまでがんばる、という動機で稽古される方。昇段審査に合格後、燃え尽き症候群のように目的を見失い、稽古に身が入らなくなり、やめてしまいます。これはとても勿体ないことです。「初段」と言うように、黒帯になったところが、合氣道の「初まり」なんです。大体の技が覚えられて、ようやく「形」の世界から「心」の世界に入る入り口が「初段」です。ここでやめるのは、お饅頭の皮だけを食べて、あんこが見えたところで捨ててしまうようなものです…(?合ってるかな…)

そう言うことに陥らないように、誦句集の一番最初、「一、座右の銘」の中では、心身統一合氣道を学ぶ者すべてにとっての大目的が謳われています。
「心身を統一し、天地と一体となることが、我が修行の眼目である」と。
つまり、心身統一合氣道を行なう究極の目的は、「天地と一体」であることなんです。

意味、分かりました?
言葉として、字面としては分かるけど、説明しろと言われたら、何だか分からない。そんな人が多いですよね。

「心身統一」という言葉を、漢字の意味だけでとらえると、「心」と「身体」を「一つにする(統一)」と読めます。これを少し分解すると、「思った通り(心)に、行動する(身体)」、言行一致、有言実行、みたいな意味にとられがちです。もっとくだけて言えば、「やりたいように、やる」。
もしこれが「心身統一」の意味だったとすると、これを実践する人は、とてもとても身勝手な人に見えないでしょうか。「(周りがどうであろうと)やりたいように、やる」、というようにも見えます。その通りだったら、心身統一合氣道会というのは、自分勝手なやつの集まりで、自分勝手なやつを増産していることになってしまいます。

もちろん、これは間違いです。「心身統一」という言葉の背景には、「心身(心と身体)」だけでなく、「天地と一体」という意味が含まれています。
「心身(心と身体)」とは、別々のモノではなく、元々ひとつのものです。「心身一如」と言います。何もしなくても、本来の姿は「一如」、つまり「統一」されているのが当たり前、なわけです。ですから、わざわざ「統一」するのだ、と力説するのはおかしいことになります。そうではなくて、「心身統一」の状態というのは、「天地(自然)と一体」の状態を指しています。

ここまで説明しても、当然疑問は解消されていませんよね。「天地と一体」って何?、という疑問です。ここからは、「天地と一体」の意味について、考察を進めます。

「天地」とは、空と大地、という意味ではなく、大自然や大宇宙を指す言葉です。大自然と一体である、というのも、実は当たり前のことですよね。人間は誰しも、大自然の一部として、大自然の中から生まれてくるわけですし、その大自然の中でしか存在し得ないはずだからです。ですが、その大自然の法則に反することをしてしまうのも、人間には起こることです。極端な例を出すと、人生に悩んで自ら命を絶ってしまう、などという行為は、自然の法則には本来ないものではないでしょうか。赤ちゃんや野生動物が、自らの意思で命を絶つというのは、想像がつかないですよね。
つまり、大自然より与えられた本来の性質や、大自然そのものの持つ法則に従って生きること、これが「天地と一体」ということではないでしょうか。

人類は集団行動をして、周囲との協調の中で生き残ってきた種族です。ですから、「天地と一体」であれば、周囲のもの達とも一体、調和するものです。一人の殻に閉じこもるのではなく、周囲と交流し、協調して生きていくのが、人間本来の姿です。「天地と一体」とは、「周囲との一体感」にもつながっている、というのが私の考えです。

それから、「天地と一体」の時に、何が起きているのか?私の考えでは、「人間本来の能力が、最大限に発動されている」です。

たとえば、肉体的な健康のことを言えば、人間本来の生命力が最大限に発動されることによって、自然治癒力が最高に働いてくれて、一番元氣な状態でいられます。ウィルスや細菌も、人間本来の生命力が働いていたら、発熱やせきやくしゃみ、鼻水や下痢、等々の活動により、有害なものは排出してくれる仕組みになっています。ですが、解熱剤や咳止めなどの薬により、その排出行動を止めてしまうことにより、体内の状態が正常に戻るのが遅れて、症状が長引いてしまうわけです。

たとえば、心身がハツラツとして生き生きとしている時は、人に対して優しく寛大で穏やかに接することが出来ます。それが本来の当たり前の状態、「天地と一体」なんです。でも、自分に余裕がなかったり、イライラしていたり、又は体調が悪くて氣持ちが沈んでいたりすると、ちょっとした一言にも過剰反応して怒鳴ってしまったり、時にはこどもに手をあげてしまったり...。本当は、そんなことはしない方が良い、ということは、誰でも分かっています。ですが、「天地と一体」を失っている、不自然な心身の状態にある時は、その通りに行動することが難しくなってしまいます。
我々は、天地自然に直結する心(「霊性心」または「良知」)を、生まれたときから与えられていて、ちゃんと持っています。それに従って行動する時、とても氣持ちが良いし、やることもうまくいくし、周りにも良い影響を与えることが出来るんです。
でも、「天地と一体」の状態を失った時、本来の自分ではなくなった時に、自分が本当に「あるべき」と思っている姿から離れてしまうことになり、あとで後悔してしまうような言動を行ってしまうわけです。

心身統一合氣道が目指すのは、「心身を統一し、天地と一体」であることを、常に保てる自分を作ることです。そしてそれを、たくさんの人々にお伝えしていくことです。
いつでも「あるべき姿」でいられる自分を作るための修行をする道、それが心身統一合氣道です。自分も周りも幸せにする武道であり、私の中では、「人生哲学」であり「宗教」です。(我が師の受け売りの言葉)

ピンと来なかったら、ふ〜ん、と思って、頭の片隅にでも置いておいてください。

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