天地の運行、天地の導き、という捉え方

〈2021年5月に会員の皆様への通信に書いた記事です〉

5月は昨年同様、緊急事態宣言下での始まりとなりました。ただ、個人的には、昨年に比べれば不安感は少なく、これまでと変わらずに淡々と出来ること・やるべきことを行なっていくだけ、という氣持ちです。出来ることに目を向けて、それを淡々とこなすこと。これは、心を病まないために有効な方法です。こどもクラスの「出来たノート」もそのためにあります。是非皆さんもご活用ください。

さて今回のテーマも、かなり壮大なものです。正直、私の力量を超えた内容かもしれませんが、いつもの通り、私の現在地からの視点でお伝えしたいと思います。

いきなりめちゃくちゃ月並みな言葉ですが、人生山あり谷あり、ですよね。「人生いろいろ♪」という歌もあり、国会答弁で「人生いろいろです!」と強弁してひんしゅくを買った首相もおりましたが、長く生きていれば、良いことばかりではなくて、嫌なこと辛いこと苦しいことだって、そりゃあありますよね。

人生の「山」の時、色々なことが良い方向に進み、うまくいっている時というのは、誰しもプラスの心でいられ、周囲に対してもプラスの態度で接することが出来ます。強いて言えば、良いことが起こり過ぎ、調子に乗って天狗になる、ということはあり、そういう時は逆に周囲にマイナスの影響を与えてしまったりしますが。。

問題は「谷」の時です。
「谷」を迎えるというのは、まず自分の「期待」や「予想」があり、それを下回る実績であった時に生じます。
今日の夕飯は大好きなカレーだと言われて、一日楽しみに過ごして、なんならお昼ご飯を少な目にしてお腹を空かせて帰宅した夜、「やっぱりシチューにしたよ」と言われたら、シチューが嫌いではなくても、「大好きなカレー」>「普通なシチュー」という不等式が生まれ、「谷」な氣持ちが訪れます。
しかし、この程度の「谷」であれば、「まあシチューも美味しいよね」と思って、夕飯を用意してくれたことに感謝しながら、美味しく頂くだけですよね。
こんな風に、簡単に切り替えてプラスに捉えることが出来れば、「谷」な氣分に苛まれて、いつまでもマイナス感情を引きずることはなくなるわけです。

しかし、元の期待がとても大きく強くて、その落差が受け入れ難いほどになると、こうして簡単にプラスの捉え方に切り替えることが難しくなります。どうしてあの時こうしなかったんだ…とか、なんでアイツはああなんだ…とか、マイナス面が頭から離れなくなりますよね。「執着」です。こうなると、視野が狭くなり、全体で捉えることが難しくなり、部分的なことしか考えられなくなります。
これは、「氣の滞り」の典型だと言えます。

ということは、ここでのコラムでも何度か書いてきているように、「氣を出す」ことにより、新たな氣が入ってきて、天地の氣と交流する自分、「氣が出ている」自分を取り戻すことが必要となります。「氣を出す」ことは、心身統一合氣道で稽古していること全てですから、心身統一合氣道の稽古をすることが、「谷」から脱するために何よりオススメなことは間違いありません。

しかし、稽古以外の方法として、是非持っていていただきたいのが、「天地の運行、天地の導き」という捉え方です。

たとえば、有名な話ですが、松下幸之助さんは、自分が成功した理由として、①家が貧しかったこと、②病弱だったこと、③学歴がなかったこと、を挙げていたそうです。どれ一つとっても、結構たいへんな「谷」の状況だったことは、想像できます。しかし、貧しかったからこそ、丁稚奉公でお金の大切さや商売に必要なことを学ぶことが出来、病弱だからこそ人を育てて任せることで、事業を大きくすることが出来、学歴がなかったからこそ人の話をよく聞き、人を活かすことが出来た、ということだそうです。

人は誰しも、天地自然の理(法則)に従って生きています。その中で現れてきた、自らの直面している境遇、それはどんなにマイナスなことがあったとしても、天地に与えられたものであることは間違いありません。誦句集の「一、座右の銘」には、”万有を愛護し、万物を育成する天地の心”という言葉があります。天地自然によって、生きとし生けるものすべては生まれてきて、育まれている。そういう考え方に立つと、天地に与えられたものは、すべて自らが生きていくために必要なことである、と考えられます。マイナスな要素も含めてです。
そう考えると、いわゆる人生の「谷」の状況を迎えた時も、「天地が、なぜ自分にその状況を与えたのか?」と考え、「このマイナスな状況をどのように活用すれば、自らの人生にとってプラスだった、と言えるのか?」という問いを持つことが出来ます。その問いに対して、明確な正解の回答を得られるかどうかは、私は重要ではないと思っています。そのような問いを発することが出来た時点で、既に自身の次の目標に向かう歩みが始まっており、与えられたマイナスな状況は、その歩みに活かすための材料に、既に変わってしまっているからです。

直面した環境、境遇、出来事のすべては、天地の運行の一部であり、天地の導きによって与えられたものである。そのような考え方をすることにより、少なくとも、いつまでもクヨクヨと悩み苦しんだり、マイナスに囚われて心身ともに動き出すことが出来ない、といったことにおちいらずに済むようになります。起きた出来事は既に過去であり、そこから学んだり反省することは無駄ではありませんが、それに囚われて次の行動をしないことは、時間の浪費になります。こういうことこそ、一番の「氣の滞り」であり、すべての不調の原因になります。心が囚われて病んでいくと、それは必ず身体に表れるようになり、病の原因になります。「クヨクヨ悩むと、免疫力が下がる」というのは、私は事実であると感じています。
過去に起きた出来事や、他人の心、といった「変えることの出来ないもの」をどうこうしようと、あれこれ考えてみても、そこに答えはありません。天地の理に沿わないこと、つまり「無理」なことだからです。

「無理」なことに囚われて、そこにエネルギーを注ぎ続けるよりも、所与の環境のすべてを「天地に与えられたもの」として受け入れ、「天地の運行、天地の導き」があるものと考えて、未来へ向けて進んでいくこと。その先にしか、「答え」はないように思います。
心身統一合氣道の稽古でも、相手に手を握られた時、動かせない部分を無理やりに動かすことが、一番やってはいけないことです。それをすると、相手との力比べになるだけで、腕力の強い人には負けてしまうからです。動かない部分は放っておき、心を静めて、動かせるところから動いてみる。そうすることで、相手との関係性は変わり、自らが主導権を握って動くことが出来るようになる。組み技の稽古の中では、いつもこのことを体感しています。

どんなことも、「天地の運行、天地の導き」によるものだと考えることで、マイナスなことに囚われることなく、逆に未来へ向けて進んでいくために必要なプラスなことだと、心を切り換えることが出来ます。そして、そうやって物事を俯瞰して大きな視点から捉える目線を持つことが出来れば、自らの失敗の原因に氣づくことが出来、さらに遠くへ進んでいくことも出来ます。

「氣が出ている」時は、物事を広く大きくみて捉えることが出来、部分に囚われず全体を感じることが出来る。そういう状態でいられるために、「天地」という大きな目線を持つこと、「天地の運行、天地の導き」によって歩んでいく、と考えることは、必ず役に立ちます。宗教じみたことと思われる方もいるかもしれません。しかしこれは、特定の宗教ということではなく、戦前までの日本人にとっては当たり前の思想だったそうです。そして、特に害となることはなく、我々が明るく生き生きと過ごしていくための助けになる考え方、と私は感じています。よかったら、皆さんも活用してみてください。

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