とらわれない(悩みごとの対処)

「とらわれない」(悩みごとの対処)

心身統一合氣道の稽古を通じて感じることのある、私がとても大切だと思っていることについてお話しします。

皆さんには「悩み」がありますか?
 
心身統一合氣道の創始者である藤平光一先生は、「悩みごとはない」、とよく言われていたそうです。これは、健康・お金・仕事・人間関係などなど、何もかもがうまくいっているから、”何も悩みがなかった”、というわけではありません。
心身統一合氣道会は、全世界に約3万人の会員がいます。会員以外にも、プロ野球や相撲界、芸能界、様々な企業の研修なども扱うように、とても広く世界中の人と交流のある団体です。広く関わりを持つということは、それだけ多くの課題・問題が生ずるのは当たり前のことです。その団体の長という立場にいた藤平光一先生、普通ならば「悩む」べきことはいくらでもあったことでしょう。

ではなぜ「悩みがない」と言うのでしょうか。ちなみにこれは、「マイナスなことは言わない方が良いから、ウソでも”悩みがない”と言っておけ」、というような、無茶苦茶な話でもありません。
「悩みごとはない」、この言葉に続いていつも、「ただ、問題はいっぱいある」、と言っていたそうです。

つまり「悩みのタネ」となることは、いくらでもあったわけです。しかしながら、そのどれ一つに対しても、心を囚われる(とらわれる)ことなく、淡々とした冷静な視点を失うことなく向き合っていることが出来ると、それは「悩みごと」とはならない、ということです。

また、「悩み」という言葉をググってみると「思いわずらうこと、心の苦しみ」と出ています。そして、その語源を辿ると、「「萎え(なえ)」と「病む(やむ)」の合成語と言われ、本来は身体の病気などによって苦しむという意味だった」とありました。思い「わずらう」こと、心が「苦しむ」ことを「悩み」というわけです。つまり、「悩む」ことは「病気」なわけです。
心が「病気」なことが、「悩み」だということは、人間本来の健康な状態に立ち返ることが出来たなら、「悩みがない」ことが当たり前、というわけですね。

悩んでいる時の自分を思い出してみましょう。悩みごとを考えることに心が奪われて、周りのことが見えなくなっています。目の前のこと、今日明日のこと、ばかりを考えて、長期的な視点に立つことが出来なくなっています。自由で柔軟な思考が出来なくなり、固定観念や一般常識に縛られたものの考え方をしています。いずれの場合も、狭く小さい世界の中に、閉じこもってしまったような心の状態ですよね。
これは、「囚(とら)われている」状態、仏教でいう「執着(しゅうちゃく・しゅうじゃく)」です。

しかし、心がこういう状態にある時でも、24時間年中無休で悩んでいるのかというと、そうではありません。例えば、お風呂の湯船につかってリラックスした時、食卓について美味しいご飯や晩酌のビールでホッとした時、愛する家族や恋人の顔を見て微笑んだ時、などなど。囚われた心が解放される瞬間は、問題が解決されていなくても訪れるわけです。
「悩みごと」は解決されておらず、存在している時でも、心の状態が変われば、「悩み」の状態ではなくなる、ということですね。

悩みごとに心が囚われて、狭い考えしか出来なくなっている状態。この正反対にあるのが、「氣が出ている」状態です。
「氣が出ている」時は、周囲を広くみて感じ取ることが出来、物事を部分ではなく全体で捉えることが出来ます。何かの問題に直面して、これを解決しようとするのならば、こういう心理状態でいる方が明らかにスムーズにいきますよね。

合氣道の稽古では、この「とらわれない」状態であることが必須です。たとえば、相手に腕をつかまれてしまった時に、つかまれた部分に心がとらわれて、その部分を動かそうとすると、相手の力とぶつかってしまい、うまく動けません。技をかけようとしても、まったく効果がなくなってしまいます。
「氣が出ている」時ならば、つかまれた腕にとらわれることなく、自由に動かせる部分(足や反対の腕、体幹など)から動いて、結果として相手を自由にコントロールして投げてしまうことが出来ます。

氣の意志法や氣の呼吸法でしていることは、心をどこにも留めることなく、頭に浮かんでくる想念もそこに留めずに川に流すように、何にもとらわれない状態を持続する稽古です。合氣道の体操や技、姿勢などの稽古も、全てはこの「とらわれない」状態を持続することとつながっています。

これは一見すると、ひとつのことに集中できず注意散漫な様子ととられる方もいるかもしれません。「集中」と「執着」は似て非なるものです。一つのことに没頭して周りが見えなくなっている、というのは、「集中」ではなく「執着」です。周りが見えないと、本当に必要なことがみえません。ある目的に対して、本当は他にもやるべきこと、とるべき情報などがあるにも関わらず、目の前の一つのことに没頭しているためにこれを得られず、目的達成が出来なくなります。広く全体を見渡し、一つのことにとらわれない心の状態でありながら、進むべき大きな方向性・目的を見失わずにいあること。これが本当の意味で「集中」していることになります。

心身統一合氣道を学ぶことで、こうした「とらわれない」という「感覚」を身につけることは、とても大きな部分を占めているように感じます。本当に大切なことの答えは、自分の殻に閉じこもって、頭をひねってひねって熟考することによっては得られず、とらわれない自由な心でいる時に、直感のようにフッと湧き出でるものではないでしょうか。「天地と一体であること」とは、自分ひとりではなく、大自然・大宇宙の一部である自分に氣づくことだと思っています。
心がとらわれてしまった時、それを解放して自由な本来の状態を取り戻すための手法が、心身統一合氣道の稽古の中にはあふれるほどにあります。心のとらわれを外し、自由奔放な心で毎日を過ごせたら、とても幸せといえるのではないでしょうか。

教室での稽古を通じて、皆さんが幸せな人生を手に入れることが出来るよう、修行を続ける毎日です。

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