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掌編小説『セレモニー』

将来の為、と言うけれど将来はあるのだろうか。頭が痛いと言ったあくる朝、この世を去った友人や100まで生きると豪語した母は、結局半分も超える事がなかった。
『だから、人はわがままに生きるべきなのよ!』
と、彼女は生クリームがたっぷり絡んだパンケーキにナイフをぐさりと突き刺した。
『いや、でも健康に気を使うのも大切かと』
『否!』
彼女はぽちゃっとした頬をさらに膨らませて僕の言葉を遮る。
『健康的な生活を送ってるからって病気にならないって事はないでしょ!』
彼女の口に入る為に切り分けられていくパンケーキ。その濃密で煌びやかなカロリー達は一体いかほどなのだろうか。まあ、答えを口に出す事は無いが。
『で、ちなみにこの鞄も買っちゃった。60回ローンで』
と、革のトートバッグを自慢げに持ちあけた。
『えっ、5年だぞ。正気か』
『当たり前。5年後に生きているかわからないんだからローンなんて長く組んだ方が得じゃん!』
どうやら彼女には金利という概念は無いらしい。
『第一、私は私の生きる為と好きな事をする為にお金を稼いでるんだから、ある程度は使わなきゃ』
彼女は窓の外を眺めながら、大口でパンケーキを頬張った。秋晴れの空の下に聳え立つ重厚な石造りの建物。港を漂わす白い街並みはまさに神戸。窓枠に切り取られた見慣れぬ風景に僕は思わず魅入られた。
『怒ってる?』
彼女は突然、上目遣いで甘えた声をだした。
仕事を急にサボらせた事を詫びているつもりだろうか。
『いや』
僕は首を横に振り、少し笑った。
人は前や後ろ、横ばかりを気にしてばかり。意外と足元を見ていない。確かに彼女の主張は一理ある。
だけど、好きな事ばかりをしていては流石に生きる事に弊害が起こる。その点はさすがに彼女も理解しているのだろう。だから、僕をわがままに付き合わせるのは年に一回。このセレモニーの前だけと決めているのだ。
『じゃ、開けるね』
彼女は鞄から取り出した健康診断の結果通知書の封筒を開け、中身を確かめた。
僕はじっと彼女の表情を観察する。
『よかった』
胸を撫で下ろし、口元を緩ます彼女を見て、僕も同じ言葉を重ねた。
『もう、別のローンは組めないや』
と、ぼやく彼女の頭の中は、次はきっとダイエットの事でいっぱいだろう。
僕はそんな彼女が、愛しくてたまらない。






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