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掌編小説『夏目漱石の月』

隣の住人の怒鳴り声が、薄い壁を突き抜けてきた。
『死んでもいいんだからね!』『いい加減にしろ』
そのうち事件になる日が来るだろう。
僕は週末の夜に常習化した若い男女の台詞に些か辟易しながら、ベッドを立つ。

何故ならこの生き死にの茶番劇の後は必ず、お隣さんは男女の営みに燃えるのだ。
そろそろ、始まる頃だろう。僕は聞き耳を立てて喜ぶ程、悲しいけれど若くはない。
 
クローゼットからベージュのコートを取り出して羽織る。下がスウェットであろうが、ちょっとそこのコンビニまで行く位だ、構いやしない。帰る頃には静かになっているだろう、とプレハブ造りの安アパートを後にした。

寝静まった住宅街の屋根と細いアスファルトの小道は柔らかな月明かりで満ちていた。
 
『死んでもいいわ』か。
 
煙草に火をつけて、煙を夜空に吐き出した。 
  
 月が綺麗ですね、の返し言葉にしろ
 お隣さんの 売り言葉にしろ
 結局、中身は同じものなのだろう。
  
 僕は乱れた頭をボリボリと片手でかきながら、ふと思いついた。
 ああ、そうだ。コンビニでお団子を買おう。
今宵は満月なのだから。

 天国にいる妻に僕は語りかけた。きっといつもの様に君は『月が綺麗だね』と今、僕に言っただろう。だから『死んでもいいよ』と答えたよ……

 だけど知っている。妻は決して僕を迎えには来ない。 
 窓から差し込む月明かりに照らされる、妻の遺影。満足気にはにかむ妻の幻影が、僕の目蓋の裏に浮かんで消えた。
 
 
 

 
 
 

 
 
 
 
 













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