担当

   日記より26-1「担当」               H夕闇
           令和四年四月十三日(水曜日)晴れ+夏日
 座敷きの窓辺に小机と座椅子を据(す)えて本を開くのが楽しい季節になった。
 部屋の奥まで入り込んでいた日足が、太陽が高くなった結果、ガラス戸の間際一畳分も射さない。余程に日差しを恵まれた日でないと読み物に耽溺(たんでき)できなかった頃と違って、ホンノリ伸びやかな気分だ。
 つい三日前に開花が報じられたばかりの桜が、一気に満開だそうだ。例年のこと乍(なが)ら、ソメイヨシノと時を同じくして、愛犬の記念樹(ゆすら梅)もガラス越しの庭で白い小さな花を一杯(いっぱい)に咲かせる。
 春の温かさを通り越して、夏のような数日が続く為(ため)だろう。陽射しの下を歩くと、汗ばむ程だ。
 亡母が実家の庭から移植した白いラッパ水仙も、珍しく今年は咲いた。滅多(めった)に咲かない株で、父が死んだ十一年前の春以来ではあるまいか。花びらもラッパも全体が乳白色で、ラッパの奥だけ仄(ほの)かに黄味を帯びる。寂し気な色だが、母が白衣を着て立ち働く凛(りん)とした姿が偲(しの)ばれる。因縁(いんねん)めいた話しは嫌いだが、植え替えた四半世紀前から殆(ほとん)ど咲かないし、かと言って枯れるでもないのは、確かな事実である。
 それと、初孫が満二歳を迎えた日に皆で集まって植えた椿(つばき)も、何年ぶりかで二つ(いや、三つ)咲いた。細長く伸びた若草色の蕾(つぼみ)が次第(しだい)に丸々と太り、先端から桃色(ももいろ)を帯び、軈(やが)て開くまで、僕は朝毎(ごと)に水を与えて待った。「今年は私が追肥(ついひ)したから咲いた。」と妻は鼻を高くする。年来これも中々(なかなか)咲かなかった。
 その隣り、額あじさいも古い枝に緑の葉が芽ぐむ。これは、沖縄に住んでいた娘から送られた。僕らの結婚記念日の祝いだった。当初は、送り主の好きな水色の花の鉢(はち)植えだったように記憶する。花が終わった後、捨ててしまうのも気の毒なので、地植えにしたら、チャンと根付いて、これは必ず毎年つゆ時に沢山(たくさん)の花が咲く。但し、我が家の庭は酸性らしく、リトマス試験紙の赤い色の花弁である。
 さざんか二本は、もう花の影が幾(いく)つも無い。冬の間、この庭で唯一の彩(いろど)りだった。濃い紅(くれない)に雪が積もると、見事(みごと)だった。その紅白の色合いを、S社のTYさんと座敷きから眺(なが)めた。
 この人が訪れる日は、屡々(しばしば)雪が降った。僕は勉強部屋にした亡父の隠居部屋へ来客を招くのが(コロナ以来)常である。窓辺の小卓で商談の合い間、目を上げると、雪さざんかが目に入った。雪国の出身のTYさんは、晴れた雪原の風景も好きだと言った。青空の下に広々と輝く銀世界が思われた。
 身寄りの無い異郷での一人暮らし。そこへコロナやら地震やらが度々(たびたび)襲い、きっと心細いことだろう。僕ら夫婦は(我が子らに引き比べられて)「困った時には」と支援を申し出たが、結局は余り御好意に甘えず、よくぞ一人で乗り切ったと感心する。新天地での幸運を心から願う次第である。

 花の季節は、転勤の時期でもある。S社に人事異動が有って、僕らの営業担当がISさんに代わった。茶を嗜(たしな)むと(前任者から)聞いたので、新任の挨拶(あいさつ)も早々に、春の庭を見せた。庭などと称するのも気が引ける。犬の遊び場だったに過ぎないが、それでも季節は巡(めぐ)って来て、さざんかの根元の福寿草(ふくじゅそう)は(「雪割り草」の別名の如(ごと)く)正月の雪の中で早々に咲いた。今は辛(かろ)うじて四つ目の花が残っていた。
 「良い香り」と新担当が気付いたのは、月桂樹(げっけいじゅ)だろう。(僕は花粉症で鼻が利かない。)この木は、長女が産まれた時に祖父(僕の父)が誂(あつら)えた。ここで最も背が高く、二階のベランダまで届く。
 むすこの記念樹は柊(ひいらぎ)。末娘のが杠(ゆずりは)。子供らの命名の由来(ゆらい)は(話しが永くなろうから、)割愛したが、譲(ゆず)り葉(は)と云(い)う植物名に就(つ)いては言い及ばずに居(い)られない。ここに(赤く色付いた葉の付け根に)出て来た芽が、春に若葉となって育ち、その成長を見届けてから、親の葉は子へ命を譲って散ると。
 親子の間柄でなくとも、大切な物を譲り譲られる関係は有り得る。前任者TYさんは転勤が決まった後「知らない人へは担当を譲りたくない。」と職場で言って、同期の入社の仲良しISさんを我が家の担当者に推薦して行ったそうだ。職場の送別会の後「今から駅へ向かう」と言う最後の時にも、内(うち)へ別れの電話を呉(く)れた。
 「前任のTY同様かわいがって下さい。」とISさんは挨拶した。それが妙に愉快で、僕は呵々(かか)大笑した。S社の昼休みに営業社員たちが多分お客さん自慢をし合ったのではないか、そしてTYさんと僕ら夫婦の(商取り引きを越えた)交流をISさんは羨(うらや)ましく聞いたのではあるまいか、と僕の妄想は膨(ふく)らんだ。

 昨夕はK社の担当者NHさんがTK課長と共に訪れた。例に依(よ)って、ゆすら梅の見えるガラス際で僕は応接した。TK課長は(ISさんと違って)拙宅(せったく)の庭にも訪れた自然の移り変わりに興味が無い様子で、早速に要件へ取り掛かった。事柄が難題だけに、早速にも取り組もうという意気込みは伝わるが。
 実は、NHさんは今春の人事異動で他支店へ転勤になっていた。が、未解決の問題が残っているので、我が家の件を自分の転勤先へ一緒(いっしょ)に移管して、最後まで責任を果たそうという心積もりなのである。それで、転出先の上司を同伴して来たのである。
 面倒(めんどう)な案件からは(転勤を良い事に)サッサと逃げ出したいのが人情。事実、そういう逃げ足の速い担当社員を、僕は(厭(い)やと言う程)見て来た。転勤とは、良い口実になるのである。
 勿論(もちろん)、担当は離れても後々まで責任を持って云々(うんぬん)、と通(とお)り一遍(いっぺん)の挨拶を述べることは忘れない。然(しか)し、その口上がリップ・サービスに過ぎぬことは、転勤先や連絡方法など具体的に言い置かないことからも知れる。僕だって永年サラリー・マンの端くれだったから、その辺の身の躱(かわ)し方や逃げ口上は心得ている。
 だから、一層NHさんの責任感に感服するのである。関連企業P社のEK所長と手を携(たずさ)えて、立派(りっぱ)な仕事ぶりである。二人は今時(いまどき)に珍しく(聞く方が赤面する程)誠実な誓いを立てたそうだ。

 顧(かえり)みれば、僕にも多くの顧客が有ったが、かれら程に信頼を得たか、と自問する。本県で最初の赴任地は女子高で、総(そう)好(す)かんを喰(く)らったことが有る。照(て)れ臭(くさ)い所(ところ)も有り、お年頃の女の子へ接し方に不慣れな点が多かった、と反省される。男兄弟だけで育った僕が、子供は男女二人ずつ(全員に同性と異性の兄弟姉妹)が必要と考える故(ゆえ)んである。
 自意識の強い文学青年は、真実に拘泥し、演技の臭いに神経質だった。嘘(うそ)も方便とか社交辞令とか云う乙名(おとな)の処世術に無頓着(むとんちゃく)、又は蔑視していた。それが禍根となって生徒と近付けなかったように思う。
 「先生のクラスで良かった。」と卒業生から言って貰(もら)えるようになるには、相当な時を要した。未熟な教員で、申し訳が無く思う。未(いま)だに付き合いの続く教え子たちは、だから尚更(なおさら)に有り難い。 
                            (日記より)

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