「里帰り養生」

     日記より26-10「里帰り養生」         H夕闇
            八月十六日(火曜日)曇り後に時々雨
 杉本苑子(そのこ)「竹の御所鞠子(まりこ)」を読んだ。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」と同時代だ。
 巻末の解説に依(よ)ると、鞠子の母(刈(かる)藻(も))の正体に就(つ)いては、(若狭局(つぼね)や美濃局など)諸説が有るそうだが、この作品では(「尊卑文脈」に従って)木曽義(よし)仲(なか)の娘という設定である。源頼朝(よりとも)の弟の義経(よしつね)(幼名は牛若丸)が平家より先に倒した相手が、木曽から上京した同族(源氏)の義仲。その娘(刈藻)が二代将軍の頼家(よりいえ)との間に産んだ子が鞠子だと言う。刈藻の立ち場から見れば、頼家は(夫と云(い)うよりも)父と一族を滅ぼした源頼朝の(北条政子(まさこ)との間に産まれた)正嫡(せいちゃく)、即(すなわ)ち仇(かたき)の子である。刈藻は父親(義仲)を殺され、自身は鎌倉へ拉致(らち)され、仇の子に弄(もてあそ)び者とされて、そうして鞠子が産まれたのである。然(しか)し、刈藻は鞠子を(生涯の汚点としてではなく)生きる支えとして慈(いつく)しみ育てた。
 時は移り、頼家に続いて、三代将軍の実朝(さねとも)も暗殺される。更に、次代の男児四人も、幕府の有力御家人たちの権力争いに担ぎ出されて、次ぎ次ぎと敗死。頼朝の男系血統は絶える。そこで、都の公家(くげ)から摂家(せっけ)将軍が迎えられる。そして、刈藻が頼家に産まされた鞠子を四代将軍の九条頼経(よりつね)に聚(めあわ)せれば、、、と考えたのが北条政子だったらしい。夫の家系と血統に執着し、源氏の再興を図(はか)る。然し、その時は既に鞠子には夫も子も有った。その上、十三歳の新将軍に対するに、鞠子は十六歳も年上。母と子程(ほど)の年齢差である。けれど、源氏将軍の復活の為(ため)ならば、政子は構わず刺客を放つ。逃走中に目の前で夫と娘を惨殺された鞠子には、もう二度と家庭の幸福は無かった。
 鎌倉幕府は合議制だった、と学校で習ったが、その十三人のメンバー(北条を始め、比企(ひき)、梶原(かじわら)、和田、三浦など)は幕府を守る為(ため)として離反者を討(う)ち、一族郎党の繁栄を図(はか)って殺し合う。そんな殺伐たる世相の下、鞠子の小さな家庭の犠牲など、家や国の為ならば取るに足らぬ些細(ささい)な事柄と見えたのだろう。
 きのうは終戦記念日。「お国の為」や「滅私奉公」の大義名分が戦争指導者たちの主義主張と私利私欲に利用された歴史を、僕らは忘れまい。又、ウクライナ侵略は半年に垂(なんな)んとする。軍事大国ルーシの野望が、小さな家族の幸せを無数に破壊しつつあるようだ。

 そんなことを考え合わせ乍(なが)ら、暑苦しい書斎で(うちわ片手に)歴史小説を読み終えようとしていると、川向こうから女性の華(はな)やかな声。保育園児を散歩させて「ああ、きれいねえ!」と沿道の庭に咲く花を愛(め)でる保育士の歓声らしい。そうやって園児たちの美意識に訴え掛(か)けては感性を喚起するのも、幼児教育の一環なのだそうだ。そう長女から聞いたことが有る。
 蟻(あり)さんみたいな行列を書斎の窓から眺(なが)めていると、居間(いま)で電話のベルが鳴った。風を通すのに、家中の戸が開けっ放しだから、家内の応対は筒抜けに聞こえる。
 どうやら長女Oの嫁(とつ)ぎ先の舅(しゅうと)と姑(しゅうとめ)かららしい。盆休みに若夫婦が夫の実家と会食し、懐妊を報告したらしい。流産などで落胆させぬよう配慮して、ほぼ安定するまでは、、、と今までT家へは内緒(ないしょ)にして来た。その間つわりが来て、(医師の勧めも有り、)我が家で静養した時期も有る。この家に長女がユックリ寝泊まりしたのは、結婚四年目にして初めてである。夫婦喧嘩(げんか)して「里へ帰る」なんて諍(いさか)いが(偶(たま)には有っても良さそうなものだが、幸いにして)一度も無かった。無論、勤め先の保育園は、休みを取った。
 初めゲッソリ痩(や)せて里帰りした娘が、一週間ずつ二度も実家療養し、上げ膳(ぜん)据(す)え膳、のうのうと暮らす内にOらしい顔に戻った。ひどく眠気が差すらしく、階下の座敷きに万年床を敷いて、始終(しじゅう)ウトウトしていたようだ。そして、朝昼晩に「おなか空(す)いたあ。」と言っては、食卓へ現れる。吐き気は初めの内だけで、軽く、食欲が戻ったらしい。それでも脱力感は中々(なかなか)抜けぬようで、毎日ゴロゴロして気(き)侭(まま)に暮らした。
 長女は子供の頃よく「一人娘に産まれたかった。」と愚痴(ぐち)ったものだ。弟妹が出来(でき)て父母の手を独占できなくなった長子の心情を述べたのだろうが、今その願いが(遅蒔(おそま)き乍ら)叶(かな)ったようだった。テレビの前に川の字になって、録画のNHK朝ドラ「ちゅらさん」総集編など見た。娘が一人で沖縄移住を思い立ったのは、これが切(き)っ掛(か)けだったと言う。

 里(さと)養生(ようじょう)の間に、今年は娘と二人で朝顔の種を植えた。孫のK(長女Oから見ると、弟Tの子だから甥(おい))が小学校で育てた朝顔の種を僕に呉(く)れたのだ。他にも種が有って、かなりな量になった。プランターを三つウッド・デッキ前に並べて、妊婦と二人で埋めた。何せ数が多いから、種と種は押(お)しくら饅頭(まんじゅう)のように満員だった。嘗(かつ)ての我が家の団子(だんご)三兄弟のように。
 数日すると、それが続々と芽を出し、蔓(つる)が伸び、花が咲いて、僕は慌(あわ)てて蔓を絡(から)ませる支柱を探した。結局、百円均一店で、目の大きな網(あみ)のような支え(グリーン・ネット)を入手した。拡げると、畳(たた)み二枚分(一坪(つぼ))程の広さになる。それを、六畳間のガラス戸の上から吊(つ)るした。引き戸から狭(せま)いウッド・デッキへ出るには、少々邪魔(じゃま)になるが、毎朝の花に免ずれば、大した難儀(なんぎ)ではない。
 土手のベンチでコーヒーを喫(きっ)し乍ら、朝焼けや朝(あさ)靄(もや)の川景色を見渡すのが、僕の朝一番の楽しみである。それから土手下のコスモス畑を眺(なが)めた後、庭へ回ると、朝顔も待っている。我が家の場合い、いかにも朝顔らしい濃い紫色は寧(むし)ろ少なく、赤味の強い赤紫が多い。水色に近い藤色のも時に咲く。それら涼し気(げ)な花たちが、日に依(よ)って色取(と)り取(ど)り、濃淡も様々(さまざま)に開く。一朝に三つも四つも咲くと、そこはかと無く喜ばしい。長女の里帰り養生の記念と思えば、尚更(なおさら)である。ネット状の支えに絡(から)んだ蔓は、(最も高い者で、)もう僕の胸の当たりまで伸び上がった。今は未だ数センチのチビも同様にスクスク育って欲(ほ)しい。
 前に末娘のYが植えて行った朝顔が二階まで伸びたことが(それも二年続けて)有る。又そんなに上がって来たら、、、と心配になるが、その時は(以前のように)二階の窓のカーテン・レールから紐(ひも)を垂(た)らそう。その時の種が自然に零(こぼ)れて、毎年プランターから忘(わす)れ形見(がたみ)が一つ二つ芽を出す。せっかくの自然の力を無駄(むだ)にするのが気の毒で、(偶々(たまたま)外孫のKから理科の実験の成果を貰(もら)ったのも合わせて、)今年は本格的に育てたのだが、Yのが内(うち)の朝顔の元祖である。
 コスモスの場合いも同様だが、植物は秋に花が散って一巻の終わりと思っていると、人間の与(あずか)り知らぬ所で種が落ち、それが翌春は勝手に芽を出して、新たな営(いとな)みを始める。毎年その巡(めぐ)る摂理(せつり)に僕は心を打たれる。                                      
(日記より、続く)


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