沖縄返還五十年

     日記より26-7「沖縄返還五十年」      H夕闇
               五月十五日(日曜日)曇り
 テレビ中継で、けさ沖縄は雨が降っている。あの日も雨だったそうだ。
 五十年前に施政権が日本へ返還されたが、領土面積の一パーセントにも満たない沖縄へ、全土の七割りの米軍基地が、全国から集中した。(本土がGHQから独立した当時は、一割り程度に過ぎなかったのに。)「本土並み」を謳(うた)った復帰は、(一部を除く)沖縄(ウチナ)ン衆(チュ)の諦(あきら)めと大和(ヤマト)ン衆(チュ)の無関心の中で今だに実を結ばない。
 「核抜き」の方も疑わしい。いざ有事の際は米側の任意で再度核兵器を持ち込むことが、秘密協定に記された事実を、(協定の存在その物も含めて、)半世紀が経っても、日本政府は公に認めていない。駐日アメリカ大使ライシャワー氏が認め、交渉に当たって後に自殺した密使の若泉敬(けい)氏が経緯を自著で公開したにも関わらず、である。
 (まるで隣国ウクライナへ侵攻している事実を世界中が目撃しているのに「特別軍事作戦」と言い包めるロシヤや、香港(ホンコン)に一国二制度を五十年間は認めた筈(はず)の中国が民主主義を装うのと、それは似ている。)
 一千九百九十五年に沖縄の少女が米兵に集団で暴行された時の県民集会で「悲劇の無い平和な沖縄を返して下さい。」と訴えた女子高校生の切実な声音(こわね)が、僕の耳に今も残る。日米地位協定に依(よ)って、アメリカ軍人と軍属は基地外で交通事故を起こしても、守られ続けている。コザ暴動の根元の原因である。「最低でも県外へ」と時の民主党首相が移転を約束した「世界一危険な飛行場」普天間(ふてんま)。だが、名護(なご)市の辺(へ)野(の)古(こ)で今も移設工事が進んでいる。その宜野湾(ぎのわん)市に限らず、ひどい騒音が日常的で、剰(あまつさ)え軍用機の墜落事故が住民を巻き込んで度々(たびたび)起きる。
 それでも、経済大国となった中国が海洋進出を狙(ねら)う限り、アメリカも沖縄の軍事基地を手放す気は更々(さらさら)無い様子だ。米軍基地に関わる以外で、沖縄県の基幹産業は観光だが、これもコロナ下に有って、貧困と格差が内地以上に拡がる。
 だが、翻(ひるがえ)って、日米安保条約に依存する日本は今後どう出来(でき)るのか。ロシヤよりも露骨に核とミサイルで脅迫する(然(しか)も国連安保理の常任理事国である中国に支援される)北朝鮮に対して、日本は一体(いったい)どんな外交努力をしているのか。国連も余り当てにならないことは、ウクライナ情勢が証明した。アフガニスタン政府が他力本願だった時、米軍は見捨てて撤退した。アメリカ人だって、自己防衛する気が無い者まで、自(みずか)ら体を張って守ってやる程お人良しではないだろう。もう「世界の警察官」を自任できる位(くらい)に豊かではない。では、自衛隊は、憲法は、、、どうするのか。
 戦後の殆(ほとん)ど国を運営して来た与党だけでなく、それを批判して来た野党にも問いたい。又、沖縄だけでなく、内地にも問う。そして同時に自問する。米中の覇権競争が激化した今、冷戦期以上に、本土も沖縄並みの危機に有る、と思うからである。

 返還の当時、僕は未だ高校生だった。そして、年上の大学生たちが何やら騒いでいた。デモ行進を規制しようとする警察の機動隊へ、隊伍を組んで、角材や鉄パイプで打ち掛(か)かった。無論、逃げ遅れれば、公務執行妨害で検挙勾留された。今日の団塊の世代(即ち2025問題の主人公たち)が、当時の学生である。就職が決まって長髪を切った後かれらが後期高齢者へ移行するまでの人生行路に、僕は興味が有る。全て知り尽くしているような口調でハンド・マイクから威丈高(いたけだか)にアジっていた人たちが、その後どう生きて来たのか。
 僕の同級生の中に、親が警官、子が中核派、といった家族関係が有った。どんな日常生活なのか、尋ねるのは気が引けた。そのK君は後に(どういう経緯か)源氏研究者となり、僕の大学の恩師O先生が講師として招かれた際に、三人で再会したことが有る。
 又、国際反戦デイのデモに参加した同級生H君は、勉強家で、大学で歴史を教えたようだが、もう退官したろう。今は何をしているのだろうか。
 学生運動家の被(かぶ)ったヘルメットは色が様々で、中核とか革マルとかブントだの民青だのと書かれていた。言うことも又まちまちで、時には内ゲバと云(い)われる党派(セクト)間の抗争も有り、主義主張の対立から主導権を争った。大学キャンパス内の学生集会で、修正主義だ教条主義だと(中ロ対立さながらに)相手を罵(ののし)り、それが嵩(こう)じて武力闘争に発展するのである。
 どれを信用したら良いのか、幼い僕は見当が付かなかった。嘘(フェイク)ニュースや戦略的な宣伝(プロパガンダ)でない場合いでも、(本人が心底そう信じる認識であっても、)解釈や事実誤認は有り得る、という複雑な社会の出来事が煩(わずら)わしかった。
 それで、現場へ行って見て、験(ため)すことにした。そうすれば一挙に全てが分かる、と単純に考えていた。当時の主な政治テーマは、沖縄返還とベトナム戦争だった。まさか(大型爆撃機B52みたいに沖縄から)ベトナムまでは行けなかったが、夏休みのアルバイトで稼(かせ)げた二万円で沖縄まで往復の汽車賃と船代が充分に賄(まかな)えた。
 前年の時点では、四月一日を以(も)って返還される筈(はず)だったから、ちょうど僕は春休み。その時この目で現場を見たら、世の中の仕組みや真相が解明され、更に自(みずか)ら生きて行く上でも今後の参考になるように感じられて、それに懸(か)けるような思いが僕に有った。(日記より)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?