雪遊び

日記より24-18「雪遊び」                   H夕闇
               十二月十七日(木曜日)風雪注意報
 この冬は雪が遅かった。記録的な暖冬と騒がれた去年よりも、初雪が更に遅かった。だが、師走(しわす)の半(なか)ば一度(ひとたび)降り出すと、あれよあれよと言う間にドンドン積もった。きょう木曜日は毎週テント八百屋(やおや)へ自転車で買い出しに出(で)掛(か)ける日なのだが、この降り方ではチョット自転車で走れそうに無い。
 きのうの早朝の時点で、裏の土手のベンチに積もった雪の深さは、人差し指一本分だった。指を定規(じょうぎ)に当てて見ると、七乃至(ないし)八センチ。気象台の観測値とは、必ずしも一致しない。
 同様に、日の出の時刻も、実際は十分ばかり遅い。僕は普段その半時間前に川辺を見渡せるベンチに座る。しののめの壮大な色彩の競演が、その頃から始まるのである。それが、きのうは雪景色に一変。いつもの朝焼けの空や雲の茜(あかね)色も美しいが、銀世界も又見事(みごと)だった。
 黒い川面(かわも)その物は変わり無いのだが、周辺の川原一帯が圧倒的に様変わりし、別天地へ迷い込んだような印象を受けた。きのうまで黄と緑の対照(コントラスト)が鮮(あざ)やかだったキリン草の群生が白く頭を垂れ、養蚕の名残(なご)りの桑(くわ)の蔦(つた)も、足元に拡がるハーブも綿帽子(わたぼうし)。芒(すすき)の穂ばかりが頭を擡(もた)げて、緩く揺れる。
 とは言え、未だ夜明け前、それに空の全天が暗い雲に覆(おお)われていた。だから色合いは殆(ほとん)ど無く、白黒写真か墨絵(すみえ)のようなモノ・トーンである。その色具合いが薄ボンヤリと青いのは、雪明りであろう。対岸の家の窓に暖かいオレンジ色の明かりが灯(とも)ったのが、妙に懐かしい。
 怜悧(れいり)に張(は)り詰(つ)めた白の世界へカップから湯気(ゆげ)を吹き乍(なが)らコーヒーを啜(すす)るのも、一興(いっきょう)だ。大ぶりのマグ・カップを悴(かじか)んだ両の掌(てのひら)で覆(おお)うと、温もりが沁(し)み通る。この飲み物をスッカリ腹に納めるまでは、冬の朝の寒さから逃げ出さないで、払暁(ふつぎょう)の景色を嗜(たしな)むことに、自(みずか)ら決めている。

 それから、きのう一日(強弱を繰り返し乍ら)雪は降った。けさ裏の道路を階段の小窓から(恐る恐る)覗(のぞ)くと、轍(わだち)や足跡が浅く残る程度で、雪掻(ゆきか)きはギリギリ不要と判断したが、その後も小已(こや)み無く降り募(つの)った。ベランダの手摺(てす)りに積もった量を見て、僕は小降りになった昼下がりに腰を上げた。
 けれど、僕は雪掻きが嫌いではない。北海道の生活を思ったら、それは比ぶべくも無い。青森から引っ越して来たAさんに言わせると、こんなの遊びみたいな物だとのこと。
 僕も遊び半分に昨日スーパーBまで買い物に出た。自転車は妻から禁じられ、運動がてら歩いて行った。大河に沿った土手道は(凩(こがらし)が冷たいが、)見晴らしが利(き)き、読み疲れた気分には心地(ここち)良い。
 呉(ご)座(ざ)勇一著「応仁の乱」は人物が次ぎ次ぎに入れ替わり、忘れた頃に再登場して、人間の像(イメージ)が掴(つか)めない。その意味で、僕に取って歴史書は難解だ。寧(むし)ろ、副読本として併読する守屋洋(ひろし)「漢詩の人間学」の方が南画のようにスンナリ頭に入って来る。
 コロナだけでも鬱陶(うっとう)しいのに、大雪が追い撃ちを掛(か)ける。これを何とか楽しみに転換したいものだ。

 きょうもきょうとて、遊びがてら雪掻きし、裏の道や玄関先で集めた雪を山と積んだ。かなり積み上がったから、これで子供でも居たら、かまくらを作るだろうに。
 我が家の子供たちが小さかった頃、大雪が降って、何度か作って遊んだことが有る。だが、一緒(いっしょ)に雪室へ潜(もぐ)り込んだ中で最年少のA君でさえ、もう立派(りっぱ)に成人し、今年は医者として新型コロナ・ウイルス感染症と闘っているそうだ。
 道路の除雪作業をしていると、傍(かたわ)らを自動車は知らんふりして(雪を踏み固めて)通り過ぎて行く。通行人も(目が合わぬように?)俯(うつむ)いて通る。スリップ事故や転倒を予防する意味で、こちとら雪を掻くのに。そんな中に一人「お疲れ様です。」と言って通った男の子が居(い)た。見知らない少年である。そういう挨拶(あいさつ)を小学校で教えているのか、或(ある)いは家庭の躾(しつ)けだろうか。いずれ、感心な子だ。「学校から帰って来るのも、大変だったろう。」と互いに労(ねぎら)った。
 作業中に、頭上から白鳥の声。帽子(ぼうし)の鍔(つば)を撥(は)ね上(あ)げて振り仰(あお)いでも、姿は見えなかったが、白鳥であることは確かだ。それも一羽や二羽ではない。本当は大勢から応援されているような気がした。
 あした当たり腕や腰が筋肉痛になるんだろう、など思い乍ら更に続けていると、又々鳴き声がした。今度は川向こうの雪空に白鳥の群れがハッキリ見えた。五羽。雪の降る中、大きく翼を拡げてユッタリ羽(は)ばたいている。いつも越冬に来る水場が今は河川工事中だが、どこで今年は暮らすのだろう。
 西隣りの借家へ南の方から引っ越して来た子供たちに、一度ミニかまくらの作り方を教えたことが有る。バケツに雪をギューギュー詰(つ)め込んで(入浴用の片手桶(おけ)も入れて)固める方法である。両親まで面白(おもしろ)がって参加したっけ。(残念ながら、その転勤族の一家は数年で去った。)
 出来(でき)上(あ)がった物を幾(いく)つも土手の上に並べ、中に一本ずつ蝋燭(ろうそく)を灯(とも)した。日の短い夕暮れ時、仕事帰りのサラリー・マンや家路(いえじ)を急ぐ学生が、ふと足を止めて眺(なが)めて行ったものだ。青暗い帳(とばり)が下りて、雪景色の中に、オレンジ色の灯し火が瞬(またた)いた。影絵か幻想のような記憶である。
 雪を掻いた道の脇(わき)、土手下のコスモス畑は既に見る影も無く雪に埋もれ、枯れ果てたが、、、
 さっき雪を捨て乍ら見ると、細長い畑の中に未だ幾つか花が残っていた。咲いた侭(まま)で寒気に萎(な)えたコスモスは、雪を被(かぶ)って重(おも)た気(げ)に頭を垂れる。薄紅色(ピンク)の項(うなじ)が痛々しかった。

 中国に乗っ取られたと米T大統領から批判された世界保健機関WHOが、粋(いき)な発表をした、サンタは免疫が有るので、大丈夫(だいじょうぶ)、配達して回れると。これで、世界中の子らは、安心して早く寝るだろう。
 あした雪が已(や)んだら、(除雪や買い物の仕事も無かったら、)一人でミニかまくらを作って土手のベンチに置いてみようか、勿論(もちろん)、中には蝋燭を立てて。サンタ・クロースを描いたステンド・グラス付きの燭(しょく)台(だい)が有るから、それを使おう。ミニチュアの雪室から例の老人が覗(のぞ)いたら、きっと道を行く人も心を止めることだろう。秋に道端のコスモスを目に留めたように。
 そんなことを思い乍ら、今夜はユックリふろに浸かって、腕や腰を温めた。

    (日記より)

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