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狂い死にと呼ぶ献花

こんにちは、今日はバスの中からお送りします。本日は定期健診の日、ゆうやです。

詩話会の飲み会

最近よく冷泉詩話会に参加しています。

かつて大学で教鞭をとられていた詩人・渡辺玄英先生に、現代詩のお勉強から実作指導までしてもらえて、現金その場支払いの(年払いでない)大変リーズナブルな詩話会です。

現役詩人ながら、学生目線で指導してくれる先生の優しさ!大学・人文学部卒でない、又は学術的な詩は1ミリも分からなくても分かりやすい授業!「授業」とは思えない近さ、アットホーム!

年齢層は現役大学生から壮年まで、会社員だったり主婦だったり、月1行きたい人のみ参加なので、色々な人と出会うことができるその詩話会を大変気に入っており、最近足繁く通っているのです。

今回はその詩話会後の懇親会についてお話をします。

詩を書く理由は人それぞれ

その日は特に合評会が白熱していました「何のための詩なのか」「何が詩でどこからエッセイなのか」など、何とも答えの出しづらい話題が飛び交ってた気がします。

結果から言うと、詩を書く理由は人それぞれですし、かつての文豪の作品でさえ、詩とエッセイの定義で議論を呼ぶものはありますので、答えなんてないんでしょうが、考える事が大切なんでしょうね。

そんな白熱した議論を終えた懇親会。

隣の人に「ゆうやさんは何故、詩を書こうと思うんですか」と質問されました。

思わず「え、何も考えてないっす!」と言いかけたのですが、持ち前の見栄っ張りのせいか「話すと長いんですが」とか言って少し長い話をすることにしました。

詩と狂気の狭間

このブログでは初めて書く話題ですが、自分は高校時代、精神疾患で中退した事がありました。

希望の進学校、文芸部での活躍、まさに輝かしい青春を送っている、親もそうだろうと思っていた時の事です。

当時は今よりもずっとずっと精神疾患への偏見が強く、自分も家族も「その内治るだろう」みたいな気持ちで放置した結果、手の施しようのない程こじらせて、進学校を中退どころか、精神病院の閉鎖病棟で過ごす日々を3年も続けることになりました。

ぶっちゃけ3年は短い方で、当時は強い薬と注射、鍵のかかるトイレも丸見えの監視カメラ付きな部屋に入れなければ、死へ一直線状態で、親族は誰も出てこれるとは思ってなかったんですね。

なんで言うのですが、精神疾患系は「おかしいな」と思った時点でクリニックにかかる事ですよ!早期発見、早期治療です。

そんな死線を彷徨ってた3年ですね、私はそれでも文字を書いてたんです。あれです、メンヘラポエムみたいなヤツです。基本的に黒歴史になるやつですね。

それを、退院して、社会復帰訓練して、大学行って、社会人になったころ、自分、捨てちゃったんです。恥ずかしいから。

でも今、文芸活動を再開させて、わずかに残ってた自分のメンヘラポエム読んだら、はっきり言って凄いんですよ。絶対もう書けないんですよ。何で捨てたの自分?!バカなの?!って死ぬほど後悔しましたね。

つまり、死線を彷徨う狂気の中で書いた作品は、狂うほど美しかったんです。

それで今、その作品に近づきたくて詩を書こうとするのですが、書けないんですよね、やっぱり。

形骸化というか、薄っぺらというか。

詩は、自分の心にとても誠実なもので、社会適合できるレベルまで回復したと言えども、今も定期健診が必要なレベルで狂気と寄り添ってる私が「狂気に取り込まれない範囲で心に寄り添う」のはとても危険な行為なんです。

だから、どこまで近づけるか挑戦したいって話をしたら、懇親会の皆さんが黙ってしまいました。

なんか、申し訳ない。

狂い死にという表現

一連の話を聞いていた玄英先生が、暫く考える様子で1人の女性詩人の方を紹介して下さいました。

そして「彼女も狂気に近づいた詩人だったけど、狂い死にしてしまってね」と語ったのです。

--狂い死に。

一瞬、自分は玄英先生の優雅すぎる表現に「そんな優美なもんか!」と言い返したくなりました。

発病して20年以上、自身も死という言葉と闘う合間、同じく精神疾患で闘病していた友人知人を少なくない人数で亡くしている自分にとって「自死」というものは、患者が願って死んだのではなく、脳を病魔に侵され生存本能を脅かされた結果に起きる「病死」だと考えていたからです。

しかし、次の瞬間にはふと、谷川俊太郎の言葉が頭をよぎりました。

それは、「詩」と「言葉」の違いについてです。

かつて、谷川俊太郎が「言葉と詩の違いとは何か」と問われた時、「『言葉』は真偽を求められますが『詩』は美しさを求めららます。」と答えました。

例えば『愛している』という単語は、言葉で取り交わされれば本当か嘘かとい話になりますが、詩の上ではいかに心に響く使い方をしたかの方が問われるのです。

そう思い出した時、玄英先生の「狂い死に」と表現した事に対し、「そんなに美しいものなんかじゃない」と思うのも違うのかなと考えたのです。

狂い死にという献花

前述の通り、私は友人知人が精神疾患によって失う経験をしてきました。

その亡くなり方は決して美しくなく、何度も未遂を起こしたり、あるいは罵詈雑言を放ち暴れて、あるいは薬の副作用で痩せ細るか肥え太り、その言動から孤立しては他人を責め、自分を責め、苦しんで苦しんで亡くなります。今後、自分が再び症状を悪化させ、死に至ったとしても、きっとどの角度から見ても美しくないです。

でもそんな中で、誰に聞かせる訳でなく誰かが私の事を「狂い死にだ」と言ってくれるのは、不謹慎であっても、何か救われるような気持ちになるのかなと思うのです。

墓前に供えられる花のように。

故人に対するわずかな思いやりのような儚い優しさが、そこにある気がして、詩とは手向けられるものなのだと改めて感じました。

自分も飲み会の席でサッとそんな言い回しができるようになりたいなあと思った話でした。

なお、玄英先生はそう言った後、空になったお猪口をコマみたいに回していてだいぶ酔っていたご様子でした。

お酒はほどほどに!

おしまい!