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文藝春秋に寄稿させていただきました

明日までは無料で全文読めるそうです。

noteのクリエイター枠でお声がけしていただいたものですが、非常に光栄な機会でした。以下の記事は、少し短くしたものが紙の方の文藝春秋にも掲載されるそうです。

今回の文章では、本文には直接的には書いてませんが、「自己鏡像認知」という話を参考にしました。鏡像認知とは、鏡に映る自分が「自己」であると認識できる力。最近魚も鏡像認知できるという話が話題になっていましたが、チンパンジーを使った実験が有名です。

チンパンジーの前に鏡を置くと、最初は威嚇したり、不思議そうな表情をしたり、鏡に映る自分に対して「他者」のように振るまう。それが数日もすると毛づくろいをしたり、身なりを整えるようになることから鏡像を自分だと認識したことが証明されたというものです。

しかし、鏡像認知が見られたのは複数で飼われた経験のあるチンパンジーであって、単頭飼育された場合には確認できなかったそうです。

他者を知らなければ、見つめられることも触れられたこともない。自分が相手の瞳の中に「どう映るのか」を知らない。考えることもない。だから鏡に映った「それ」を見ても何も感じない。自己鏡像認知ができるようになるためには、離れた場所から自分がどう見られるのかを知っている必要がある。離れた場所──それは他者からのまなざしなのではないか、と言われています。つまり、鏡を見るという行為は、誰かという存在なしには成立しないのです。

他者からどう見られるのかを前提に、鏡を見ては髪を整えたり肌の調子を見たりする。あまりに日常的すぎて気が付きもしませんでしたが、この行為によって自分は社会の一員であることを確認し、同時に自分をケアしていたのではないだろか。

化粧をすることが多い女性は、鏡を見る機会が男性より多い気がします。「まなざし」に晒されていると自覚することが多いから……と言うと窮屈な印象を受けますが(実際、外見の呪縛もある)、年老いてもハキハキしている女性を見ると鏡の力を感じなくもありません。鏡を見て劣等感に駆られることもありますが、いつも人前に出られるようにケアすることが身体に染み付いているような。

鏡像認知について書こうと思ったきっかけは、言うまでもなく父です。父が定年を迎えてからまもなく10年が経とうとしています。それまで電車に揺られて通勤していた生活が、一日中家の中で過ごす生活になりました。もしかすると孤独だったのかもしれません。

本文にも書いたとおり、父はとても寡黙。何を考えているのかわからない人だな、とよく思います。母も生前、寡黙すぎる父に「何をやっても、うんともすんとも言わない」と激怒していたのを覚えています。

父は労いの言葉も、褒めてくれることもありませんが、怒ったり弱音を吐いたり、嫌味を言うこともありませんでした。自分が働くようになってよく考えます。「育児をしていて、思うように働けなかったのではないか」「もっと働きたかったのではないか」と。

もっと早く、親も人間なのだと気がついていればよかった。いつまでも「自分が思い描く親」であり続けるわけがない。「自分の人生はもう長くない」と言う父ですが、その残りの人生を自分のために生きて欲しい。そのためには、自分を大切に思ってほしいのです。

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