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どう最期を迎えるか考える

私は実母と義父をがんで亡くしている。
川崎にて腫瘍内科-緩和ケア-在宅ケアをトータルで診療されている西先生のお話を聞き、記事を読み、驚いた。もっと早く出会いたかったし、多くの人に知ってほしいなと素直に思った。まさか文章術の講座を受けていて、こんな出会いがあるなんて。


病院がとにかく嫌いだった母

実母は病院嫌いだったが、病気知らずだった。熱も滅多に出さない。夜眠れなかったり、更年期の影響からかメンタルクリニックには通っていた。それでも仕事をして、私が子どものころから始めたママさんバレーを50歳過ぎても続け、お洒落が好きでショッピングを楽しむ人だった。

山も川も海もある、豊かな自然に囲まれた新潟のとある町出身。それなのに、雪国も田舎も嫌いと言い放つ。旅行も好きではない。自分に正直で、素直で、少女のようなところがあった。

母は不器用で「高校合格」などわかりやすいことは褒めてくれるけれど、その子自身のちょっとした変化や成長に目を向けるタイプではない。学校の勉強があまりできなかった弟たちに対して褒めることが少なかった。例えば「いつも40点なのに今回は60点」に対して「なんだ60点か」と素直に言ってしまう。

私は教育学部に進学し、両親の弟への対応に疑問を感じ「もっと弟を褒めてあげて!」とぶつかったこともある。ちなみに今弟は立派に社会人をしている。「いつ頑張るか」はその子それぞれだ。

私が就職して、わざわざ東京から地方へ行くことが心底理解できない様子だったけれど、反対はしなかった。大学4年生のときに就職先のリゾートホテルへ行ったのが、初めての母との2人旅行だった。

田舎町の、街灯がほとんどない場所にある私の寮に来たときに「こんなところ絶対に住めない!」と言い放った母。「私は何か送ってあげるとかはしないけど、こっちに来たらしてあげるよ」とよく話していて、私が帰省すると一緒にお茶をしたり洋服を見に出かけたりした。なんだか憎めないのが母なのだ。

母の生き方や考え方は私には理解できない部分が多かった。それでも、人並みだけれど孫ができるととても可愛がってくれて、何より私の体調や気持ちを気遣ってくれ、ようやく母のことが少しわかるようになった。

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病気がわかったとき家族は

母の病気がわかったとき「明日息を引き取ってもおかしくない」といきなり言われた。体調の悪さを自覚しながら、母はずっとだましだまし仕事や家事をこなしていた。あまりに調子が悪く、職場の方の勧めもあり意を決して地域の中核病院を父と受診したときのことだった。

母は病院が本当に苦手で怖がりだったため、父が最初に話を聞き「母に病名を伝えるのを待ってほしい」とお願いし、検査のための入院という形で入院生活が始まった。

父と弟たちと、いきなりの重たい家族会議。父は母が元気だったころ、何度か母の医療保険や生命保険にも多少入ったほうが良いのではと話そうとしたが「私が死ぬっていうの?」と言ってまともに話にならなかったらしい。そのくらい、母と病気のこと、ましてや最期を迎えるときのことは話していなかった。

「セカンドオピニオンした方が良いの?」「大きな病院を勧めてくれないの?」「大きな病院を勧めても無駄なくらいの状況なの???」

そう思いながら、病院からは特に何も言われない。対応に疑問ばかりだった。しばらく入院をしていると「ホスピスを探した方が良いですよ」と言われて、意味がわからなかった。

当時私は20代。がんについてあまりにも無知だった。書店に行くと「食事で治る」「放置すれば良い」など眉唾物の体験談が並ぶ。ネットで検索すると「ひょっとしたら治るのでは‥?」と思えるような話がゴロゴロ転がっていて気持ちが揺さぶられた。

嘘か本当かわからないような話が「本」として出版され、一般的な書店に売られていることにも驚いた。何を、誰を、信じたら良いのか。

父は気が動転しすぎて、医師の言うことをそのまま受け入れ、母にどう伝えたら良いかでずっと悩んでいた。しかし幸いなことに、同じ病院の若い医師が「セカンドオピニオンも考えてもいいんですよ」とアドバイスをしてくれた。私もがんにまつわる公的機関のHPなどを見て、「セカンドオピニオンをした方が良いと思う!」と父に意を決して、伝えた。

その頃、いくつかの偶然が重なり、国立大学の附属病院が母を受け入れてくれることになった。

このときに転院先の医師からは「うちに転院するのであれば、まずは患者さんに病名を伝えたうえでないと治療はできません」とはっきり伝えられた。それを承諾し、ようやく、父から母に病名を伝えた。母は取り乱すことなく、不思議と穏やかに受け止めていたように思う。

転院先の病院へ移動した際「同じ状態から◯%の人が社会復帰を果たして、生存率は◯%です」とはっきりと数字と実例を示しながら説明されたそうだ。「余命というのは言わないんです」とも。

私はその場にはいなかったが、父からこの話を聞いて、信頼できると思った。無闇に不安を煽ることも、希望を持たせすぎることもしない。

そこから2年間、治療はつらいものもあったと思うけれど、治療法が母の体に合ったこともあり、みるみる動けるようになった。一緒にショッピングをしたり、子どもたちと少し遠出をしたり、穏やかな時間を過ごした。出来うる治療の中から、考えて、選択して、それが体質に合うかどうかなんだと学んだ。


在宅医療にふれる

母や父の意向で、最期は自宅で過ごした。
このときに在宅医療や終末期医療のことを知って、関わってくださった方へ本当に感謝している。

訪問介護のヘルパーさんには週に数回、主に料理をお願いしていた。母は50代。それまで人に頼らずずっと自分で料理を作っていた。おかずを数品お願いしたり、餃子のタネだけ作ってもらって後で一緒に餃子を包んだり、そんなことをお願いしていた。食べやすくて美味しいからと、茶碗蒸しもよく作ってもらっていた。

作りに来てくれるヘルパーさんは、本当に料理が好きで「朝起きて家で料理をしてから家を出るの。今日はここで2件目。このあともう1件行くのよ。帰ったら80すぎの母がいてね。ずっと料理してるわ~。」と明るく話す。

その方をはじめ、何名かの方に来ていただいていた。皆さん明るくちゃきちゃきした方たちで、母も料理のコツを教わり実践し、生きる楽しさをもらっていた。私が料理した後に野菜の捨てていた部分を見て「あらー!ここはまだ使えるのよ~」と教えてくれてみんなで笑ったり。母娘でお世話になった。

人の家の台所なのに鮮やかな手つきで料理を作り上げていく様子は感激もので、利用したことはなかったけれど産後ヘルパーや家事代行をもっと世の中の人は積極的に使うべき…!と感じた経験だった。

身の回りのことやちょっとしたコミュニケーションで、友人や家族には気を遣う部分も、ヘルパーさんや看護師さんだから委ねられたと思う。私も車で30分ほどのところに住んでいてよく通いながらも、何をしてあげたらと戸惑うことがあったから。


最期をどこで迎えるか

母が亡くなったあと、多くの人に「最期を自宅で迎えられたならよかったね」と言われた。「そうか…よかったのか」と、一歩引いて冷静に考えていた。転院したときに、社会復帰を目指して積極的な治療を選んだけれど、母の意思より、家族の意向が大きかった部分がある。

母はおそらく「みんなが望むなら」という考えだったように思うけれど、最期をどう迎えたいか、治療をどうしたいか、母と直接話したことはあまりなかった。

私は「自宅だと不安じゃないのかな」「病院の方が安心じゃないのかな」と感じていたのだと思う。みんながみんな自宅で過ごしたいわけではなくて、最期をどこでどうやって過ごしたいのかは人によって違うのだろう。

ただ、自宅で迎える最期は、身近で見て自然なことのように感じた。何かにつながれることはなく、いつ亡くなるかはっきりとはわからない。穏やかだったなと思う。

さらに母が亡くなった数年後に、義父が同じ病気になった。わかったときの進行度にも近いものがあった。義父は初めからもう積極的治療は受けない、と自分で決めていた。

私の母が最期を自宅で過ごした様子を聞いていたから、義父と最期自宅で過ごそうと思えたと義母は話していた。在宅介護はもちろん、大変な部分があるだろう。それでも、「最期良い時間を過ごせた」と、義母も家族も話していた。

私たち家族も、義実家の家族も、残された寂しさ、悲しさ、早くわかっていたらと悔しい気持ちなどをたくさん抱えている。それでも、何気ない日常に近い時間を、終末期に自宅で共有できたのは救いだったのかもしれない。


自分はどうしたいか

数年の間にこれらの出来事にふれて、自分がどう最期を迎えたいか、どんな治療を受けたいのか、否応なしに考えるようになった。けれど、まだはっきり見えていない。あまり考えたくないし、こわいのが正直なところだ。

先日、夫に「延命治療とか…どう思う?」と聞いてみた。「しなくていいよ」と即答。そうか、夫はそういうタイプだもんな。「私は痛いのも苦しいのもいやだなあ…痛くて苦しくなければなんでもいいなあ…」そんな言葉が自分から出てきた。はたと気づく。何気ない対話のなかで、口に出すことで、自分でも気づいていなかった気持ちが見えてくるのかもしれない。

患者の心に寄り添い、さまざまな可能性を提示しながら適切な治療をしてくれる先生と出会いたい。そして自分がお医者さんを信頼できるようになりたい。西洋医学だけでなく東洋医学にも精通してたり、連携したりしていて、トータルで患者さんの心身を軽くしてもらえたらいいな。そんなことを思う。

父は母が旅立ってからも、現役で働きながら釣りに登山にアクティブに忙しい。もともと一人が好きな人なので、基本ソロ行動。一人登山をするときは、万が一のため家族に行き先を伝えるのが鉄則だそうで、毎回「今回は〇〇山に入るよ」と連絡がある。「無事戻ったよ」と連絡があるとほっとする。

家族との会話を繰り返して、どんな考えを持っているのか日頃から聞いておきたい。自分がどうしたいのか、自分をかたち作るためにも。

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