「小学生でやめるもの」だったサッカーが「人生をかえるスポーツ」になる

小中高校での話をまとめて書きました。女子チームに入り、指導者に恵まれ、仲間に恵まれ、私の中でサッカーがかけがえのないものになりました。

順調すぎる小学生でのサッカー生活

前回の記事でも書いたとおりサッカーを辞めたいという想いをずっと抱えていましたが、辞めると言えなかったのは「せっかく始めさせてくれたのに申し訳ない」という親への気持ちでした。なんとなくサッカーを続けたまま5年生になるタイミングで母が新聞で女子チームの記事を見つけそのチームの練習に参加することになりました。前橋エコーは男子チームからJリーガーも輩出しているクラブチームです。体験で参加した練習後に母から「少年団にいたら公式戦に出れないし、本気でやりたいなら通わせてあげる!どうする?」と聞かれました。

「通いたい。」

そう答えたもののその時はまだ「本気じゃないって言えない」という思いからの返事でした。(ママごめんなさい。笑)

ただこの決断で私にとってサッカーが「小学生でやめるもの」から「人生をかえるスポーツ」になりました。

1番大きいのは監督との出会いです。

この監督なくしてサッカーで勝つ喜びも、負ける悔しさも知ることは出来ませんでした。加入した小5の1年間はお世辞でも強いとは言えないチームでしたが、私の代が6年生になる時には「勝てるチーム」へ変化しました。単純な技術レベルがもの凄い高いわけではないのになぜか勝てると父兄も不思議がるほどです。もちろん全国レベルではないですが「このチームなら負けるはずない」という自信が不思議とあった記憶があります。関東近辺での大会で優勝を重ね、実力以上の結果を手にしていたので小6は完全に第一次調子乗り期です。笑

チームとしての転機は夏の草津サッカーフェスティバルで、鮫島彩選手(INAC神戸)が当時所属していた強豪の宇都宮ジュベニールとPK戦にもつれ込んだこと。結果は負けてしまいましたが、その後ジュベの監督が色んな大会でPKまでもつれた話をしたことで「群馬にジュベニールと競るチームがあるらしいぞ!」と一気に名前が広がりました。

完全にただのラッキーです。笑

そこからは東京・神奈川を中心に様々な大会へ呼ばれることが増え、年間150試合以上こなす充実した1年を過ごしました。このチームでこの仲間でサッカーする時間が何よりも楽しくて、小6の修学旅行と大会の日程が重なった時も迷わず「大会に出たい」と親に伝えたほど私の生活はサッカー中心に変わっていました。6年生の人数分である8個のトロフィーを1年でとるという目標もクリアし、このチームで小学校生活を終える頃は当たり前のように中学でもサッカーを続けると考えていました。

中学生の時は社会人チームへ

卒業するタイミングでチームメイトと中学生になった時にプレーするチームを相談していましたが、中学生の女子チームは一部の中学校にサッカー部がある程度でジュニアユースのクラブチームはありません。続けるには社会人のクラブチームへ入るしか選択肢がなく、いくつか候補がある中で選んだのはFCすばるという当時関東リーグに所属していた県トップのクラブチームです。チームメイト数人と練習参加に行ったのですが、急に大人に混ざった緊張で声も出せず遠慮したプレーをした私に父が「その程度の気持ちなら通わせない」と初めて反対しました。なかなか説得出来ず、私だけ中学の最初は兄が部活の他に通っていた男子のクラブチームへ練習参加することに…。そのクラブチームは色んな地域から選手が集まるのでレベルも高く、中学生男子のスピードとパワーに圧倒されながらも必死についていきました。全体練習では3年生が面倒見よかったこともあり同じように練習が出来ていましたが、学年別に分かれての練習では「女子とは競りにくい」と言われメニューによっては参加させてもらえませんでした。悔しさもあるけど男子に"まぜてもらっている"感覚が消せなかった気持ちの弱さを自分で理解していたのでしばらく親にも言えず、行きたくない気持ちだけが増え続け仮病を使った日もあります。そんな時に小学生の時のチームメイトから「やっぱり一緒にやろうよ」と電話がきました。それをキッカケにもう一度FCすばるの練習へ参加させてもらうことになり、父も認めてくれたことで少し遅れながらも無事FCすばるに所属することが出来ました。中学生の時に関東リーグで大学生や社会人のレベルの高いチームと対戦出来たことは本当に良い経験でしたし、試合ごとに自分の成長を感じることが出来る最高の環境でした。そして社会人チームのスタメンで試合に出れていることでこの時も完全に調子に乗っています。第二次調子乗り期です。笑

クラブチームから部活へ

高校は中学生の時に呼んでもらったU-18県選抜のセレクションを見ていた監督から声をかけて頂き、サッカーの特待生として高校に入学しました。ただ当時は女子サッカーがTVで放送されることがない全然時代です。将来を考えるとやりたい勉強の出来る高校(もちろん制服は可愛いところ←重要。笑)に行き、クラブチームで続けることが自然な道だと思っていました。小学から一緒にやってる仲間の1人が宮城県の強豪聖和へ進路を決めていたこともあり高校サッカーへの興味もありましたが、いくら特待とはいえ"サッカーするため"に私立へ行くことは親に迷惑ではないか?という想いもありました。何より金曜日の二者面談で担任から特待の話を伝えられ「答えは月曜に」と言われたことで考える時間の短さに完全にパニックです。中学3年間志望校の為に勉強してきたし、急な進路変更を2日間で決めないといけない…無理。どうしよう。そんな私を見て「今までやってきたことを評価して呼んでもらえることは誰にでもあるわけじゃない。サッカーで決めても良いんじゃないか」と背中を押してくれたのは父でした。

高校では怪我だけではなく、練習中に頭からグランドに落ちて意識がなくなり救急車で運ばれたりと心配かけることも多く、実際にプレーしていた時間は短かったので「クラブチームで続けていたら…」と後悔したこともありました。でもこの高校へ入学していたから今の仕事をしていると思います。そう考えるとこの時の選択は間違いではなかったかな。

私のサッカー人生を支えてくれた人

振り返ると私のサッカー人生は本当に両親の協力なくしては成り立ちませんでした。小学生の時は片道1時間以上、中学生の時は片道1時間半以上かかる練習場へ母は仕事後に私を送って行き、帰る時間はないのでそのまま練習が終わるまで車で待ち、練習終わりの私を連れて家に着く頃には0時近くになる。その生活を週に3回の練習のたび繰り返し、土日は県外遠征です。土日の試合も両親は応援に来てくれていましたし、来れない時も朝5時過ぎに出発して私を集合場所へ送り、また帰りに迎えに来るという生活をずっと続けてくれていました。子供のためとはいえなかなか出来ることではないです。チーム数が少なく続けることが難しい女子サッカーをいい環境で続けられたのは100%両親のおかげです。引退してから今も仕事として携わるほど私の人生の一部であり、人生をかけるほど大好きになれるサッカーを続けさせてくれたこと、ずっと否定せず本気で応援してくれた両親に感謝しています。サッカーに関わり続けることが親孝行になっていたら嬉しいなとひそかに思っています。

そして、女の子がもっとサッカーを続けやすい環境が作られていくことを今も願っています。


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