全てのデペイズマンたちへ捧ぐ。〜シュルレアリスムの私的解釈〜

デペイズマンとはシュルレアリスムという芸術運動における重要な方法論の1つである。コトバンクの説明を引用する。


フランス語で「異なった環境におくこと」の意味。美術上の用語としては,シュルレアリスムの一技法をさす。ある物を日常的な環境から異質の環境に転置し,その物から実用的性格を奪い,物体同士の奇異な出会いを現出させる。この方法により人々の感覚の深部に強い衝撃を与えることをねらいとする。

デペイズマンを分かりやすく体験できる芸術家としては、ルネ・マグリットが挙げられる。

私はなぜかシュルレアリスム、特に具象的なデペイズマンの技法を使用した絵画が好きだ。しかし、なぜ好きなのかが分からなかった。作品の何かしらの力によって惹きつけられ、絵画を前に立ち尽くし、吸い込まれる。だが、その明確な理由は一向に分からない。一般的に、説明が不可能なことに対して魅力を感じることはよくある。好きになった相手をなぜ好きになったのか、他の人物と比較し、根拠を持って完璧に説明することは難しい。相手の総合性、曖昧性をそのまま受け取ることを、愛するという行為は強制する。私のデペイズマン絵画に対する感情も、そのような絵画全体からにじみ出る違和感、不安感自体を感受しているのだと自分を説得していた。
しかし最近、どうやらそうではないかもしれないということに気がついた。だがこれはあくまで私の感受の仕方であって、正解というわけではない。デペイズマン技法の重要性は解釈の多義性それ自体にもあるので、私の解釈はあくまで参考として読んでいただければ幸いである。題名の通り、これは「私的解釈」である。
話を本題に戻そう。では一体、デペイズマン絵画の何が私を揺さぶるのか。それは「共感」という感情である。
ルネ・マグリットのあまりに有名な絵画の1つに『人の子(The Son of Man)』という作品がある。名前を知らずとも、絵画を見れば思い出す人も多いだろう。

この作品は黒いハット、黒いオーバーコート、白いシャツと赤いネクタイを身に着けた男性が立っているところに、ちょうどその男性の顔を隠すように黄緑色のリンゴが浮いている。とても分かりやすくデペイズマンを体感できる作品である。シンプルな背景と、変哲のない格好の男性、そして、意味深に顔を隠すリンゴ。これほどまでに見る人に「考えろ」と訴えてくる作品もそう多くない。では、この作品に対する私の「共感」とは何なのか。順を追って話していく。
ここ数年、若者が抱える孤独感の問題がしばしば各メディアで取り上げられている。「特定非営利活動法人 あなたのいばしょ」の調査によると、2020年4月から2021年2月にかけて世代ごとの孤独を抱えている人の割合は20代が最も多く、42.7%であったという。そこから年齢を重ねるごとに孤独を抱えている割合は減少していき、60代以上は23.7%に留まった。細かい内容については、下記の調査内容を参照されたい。

https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/kodoku_koritsu_platform/kodoku_koritsu_platform_setsuritsusoukai/dai1/siryou2.pdf

調査の内容によると、この孤独を感じる人の割合は、コロナ禍から高止まりの傾向があるという。執筆している現在は2023年であるので高止まりの状態が解消されている可能性はあるが、コロナが引き起こした生活状況の一変は今も尾を引いているだろう。
私自身も、孤独感を感じることがある。孤独感の量と質を比べることはすべきではないが、コロナ禍の3年間ほど、学校に通うこともままならず、1人自室にこもってひたすら、流れる時間を受験勉強と娯楽に費やした。現在はかなり環境も改善されたが、だからといって過去の鬱屈とした3年間が消えるというわけではない。少なからずコロナ禍は私の自己形成に多大な影響を与えた。それは必ずしも悪いことだけではないが、良いことだけだったとはとても言えない。
ここからは私なりの考えであるが、そこから孤独を持った人は、社会からの疎外を感じ始める。当たり前といえば当たり前だが、コロナ禍に外に出られないにも関わらず、依然として社会は―その力強さは減少していたとしても―回り続けている。私は何もしていない、何もできていないにも関わらず、私と全く関係のないところで世界は回り続けている、そういう感を自己の内部に生む。特に経済的価値を生み出す労働の主体ではなかった、当時の高校生・大学生などの若者達は、まさに資本主義社会における私の「必要のなさ」を実感した。
話は変わって少し哲学の話をする。ハイデガーの実存主義の立場によれば、私から見える世界全ての物体は、その物体の道具的な役割を客観的に判断できる。私は今パソコンを使って執筆しているが、パソコンはnoteを書くための道具という明確な役割を現時点で持っている。飲んでいるレッドブルは私の眠気を覚ますための道具だし、大学の先生は私達学生に学問を教えるという役割を持った、私にとっての道具と言える。自己の外側にあるものについては、その物体の持つ役割がいかなるものか、簡単に判断を下すことができる。
では他ならぬ私はどうか。私は私自身のことを客観視できないから、自己の中に「可能性」を見出す。選択肢が死ぬまで永遠に残されているように感じるのである。(本当に選択肢を自由に選ぶことができるのかという形而上学の問題は、今回は触れない。)しかし当時はコロナ禍に置かれ、身動きの取れない状況を強いられていた。それでいて経済の主体ではない学生は、社会からの無価値の烙印を押される。つまり、私の持つ社会への「可能性性」を疑ってしまうのである。私なしでも社会は回っているのであれば、本当にこの社会に私は必要なのか?と考えてしまう。
説明が長くなった。では本題であるデペイズマン絵画への「共感」とは何なのか。それは「絵画の中でデペイズマンを生み出す対象への共感」である。『人の子』を例にあげれば、その対象は小さな黄緑色のリンゴにほかならない。もしリンゴがなければ、この絵は均質で安定した、違和感のないただの自画像(この絵画の男性はルネ・マグリット自身である)であっただろう。しかしリンゴがあるせい・・で、この絵は見ているものに不安定さを与える。ある意味、このリンゴは不必要な存在である。リンゴは絵画全体から、異質なものとして疎外されている。つまり、この「リンゴと絵画全体との関係」は、「無価値な私と、それでも整然と成立する社会との関係」のアナロジーとして、少なくとも私にとっては、現れてくるのである。リンゴの存在する役割が可能性を孕みすぎるあまり、役割自体を見出せないように、私の役割も可能性がありすぎる。しかしながらリンゴ自体は絵画の中で疎外され、私という存在も社会において疎外されている。
しかし、逆に考えてみよう。もし絵画の中にリンゴがなかったら?たしかにバランスの取れた、緻密に描かれた絵画として、綺麗に存在するだろう。だが仮にそうなっていたとしたら、この絵画は多くの人々に面白がられただろうか?私はそう思わない。この絵画におけるリンゴは不必要であると同時に、必要不可欠でもある。それはリンゴの持つ絵画の中での役割云々ではなく、「そこに、顔を隠すように在る」こと自体の必要性である。そこに在ることによって、絵画を見る者たちは解釈をああだこうだ言い合い、その言い合いによって価値が生まれる。「価値があるからそこに在る」のではなく、「そこに在ることによって価値が付与される」のである。
そしてもし、この絵画が孤独を感じる人々と社会のアナロジーとして確からしいのであれば同じ様に、「私という存在が在ること」自体が重要であると言えるだろう。リンゴそのものに確固たる役割があるのではないように、私そのものが確固たる役割を持つわけではない。しかしながら、私という存在がそこに在ることによって、私の価値はあらゆる私ではない周りの物体から付与されていくのである。その価値付けは私の持つ可能性と合致するかもしれないし、相反するかもしれない。もし相反するのであれば、それは私の価値づけをする周りを変えれば良いということになる。同じ絵画を見ても出てくる感想が人によって異なるように、私という存在の価値付は環境によって千差万別であるはずである。
つまり、私という存在が唯一しなければいけないこと、それは「在るということを諦めない」ことである。
今を生きる私と同じような「デペイズマン」達に、今回の文章を捧ぐ。

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