松村圭一郎『旋回する人類学』を元に考える【基礎教養部】
前回↓に引き続き、文化人類学の本を読んで考えたことを書いていく。今期大学で文化人類学を受講していたのでそれも含めて新たに考えられることがあるかもしれない。この時点で記事の全体像は特に見えておらず、書き始めている。
『旋回する人類学』の「旋回」とは人類学が直線的な発展を遂げてきたのではなく、幾度と自己反省を繰り返した様子を指しての表現であった。特に詳しい話を知らなかった頃の、僕の人類学へ抱いていたイメージは、遊牧民やアマゾンの奥地に暮らしている裸族を対象とする民俗学のようなものや、ホモサピエンス以前の人類の骨を発掘して調べたりするような考古学のようなもの(この二つは必ずしも独立していると思って挙げているわけではないが)である。確かにこの二つは広い意味で人類学の範疇に入っていると思うが、少なくとも自己反省を繰り返し、昔とは異なった意識や研究手法を取っているということは知らなかった。
一方で、僕が専門としている物理学や数学は、僕の知る限りでは特に自己反省的なムーブメントは起こっていなかったと思う。ただただ分野が発展するにつれて意識の変革、パラダイムシフトは何度かあったと思うが。そういう自己反省が起こらない理由として、自然科学が客観性を重視する学問だからというのがあると思う。ポパーの提唱した科学の再現性というのもこれに含まれる。実験を行うときに、全ての記録を実験ノートに書かなければならないが、同時に他人がそれを読んで同じ実験と同じ結果を再現できるかが重視される、これが再現性である。客観性を担保されつつ積み上げられていった結果は、例外的な振る舞いが見つかるまで不変的に正しく、実験者の主観が入る余地はないのである。だから、そもそも反省する自己を持ち合わせていない。
一方で、人類学の研究手法は基本的に参与観察という形を取る。参与観察は研究対象の共同体または組織の一員として加わり行動しながら記録を取っていくという形式である。これは科学との対比で述べるなら、観察者に主観と客観が混在している、矛盾した態度である。
観察者が何を思って何を記録するのかが重要になってくる。そしてその結果をどう解釈するのか。入ってくる情報全てを記録するのは不可能なので、記録する事項すらも観察者の主観が左右することになる。客観視をしているのは、「自分がこの集団の一員ではない」ということを根底に置きつつ参与観察をしているという部分だけである。そもそもがそういう態度だったから、文明と未開という対比構造が生まれ、西洋中心主義の元に諸文化への価値評価を下すという羽目になってしまった。しかし、そのままで終わらず旋回をしたのが文化人類学の面白いところだと思う。
紆余曲折を経て、結局のところ人類学は、「諸文化に対し価値判断をしない」という形に落ち着いたのである。
しかし、ここまで対比してきた自然科学のような、専門的な知識を自分の中に持つことは、その自然科学という「文化」に浸かることだと思う。我々はそれを「文化」とはとらえず、物の捉え方の一つとして中立な視点に立っていると錯覚してしまう。しかし相対主義的な視点、人類学的な視点に立つと、先人からの継承性を持っている(ゼロベースではない)ところから、(この性質が本質なのかどうかは分からないし継承性があるからと言って大層に文化と行ってしまっていいかは微妙であるが)自然科学も「文化」と捉えてよさそうである。一般に文化と認められているような風習でなくても、ほんの複数人の間の決め事を文化と捉えてみると、何か見えてくるものがあるかもしれない。何を「文化」とみなすのか。
僕の所属している秘密結社ジェイラボには、文化表現研という部活がある。所属していること、組織名、部署名を一気に公開してしまったが、この辺りは調べると出てくるのでセーフである。どちらかというと表現についてよく考えている活動である。文化はプレパラートに載せる試料に過ぎない(と僕が活動をしていた範囲内では思っていた)のだが、やはりそちらの「体験活動」の方が傍から見ると目立っているようである。僕は一方で文化について、これから携わっていく身として、既存の知識を知ることは勿論、既存の文化がどう変容していくのかも考えていければいいと思う。
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