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かりやど〔参拾伍〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
歯止めの効かない狂気が
血を流しながら走り出す
 
 

 
 

 朗──昇吾は、美鳥が危うい道に足を踏み入れた事を受け入れがたいと思いながらも、逆に目を離すことも、傍から離れる事も己に許さなかった。それは、むしろ今の段階で、踏み留まらせる事は不可能だと、確信的にわかっていたせいもある。
 何より、美鳥の身体の事を考えれば尚の事、到底、目を離す事は出来なかった。
 
「……本多さん……朗です」
『朗さま?どうなさったのです?』
 昇吾が謀らずも、黒川玲子の件が解決してしまったためなのか、本多は意外そうな声を出した。それでも、最優先の主である美鳥の行動を、昇吾に洩らす事は決してない。
「……お願いがあります」
『お願い?私にですか?』
「そうです」
 その声音に、何か思いつめたものを読んだのか、訝しげな本多の間。
『……どのような事でしょう?』
「……美鳥の事です」
 本多が返事を迷っている気配を感じる。正確には、昇吾の質問が漠然とし過ぎていて、返答に窮している。
「……美鳥が何か行動する時には、ぼくに教えて欲しいんです」
 何の反応もない事が、却って昇吾の中に『美鳥がやった事』の確信を生じさせた。昇吾の心のどこかに、口先だけの事だったのではないか、と信じたい気持ちがあったのだ。だが、その微かな望みも消え失せたのだと知る。
 本多からの返事はないまま、昇吾は続けた。
「……邪魔しようとか考えている訳ではありません。もちろん、ぼく自身も美鳥の動きに今まで以上に注意を払うつもりではいます。ただ……」
『ただ……?』
「本多さん……元気になったように見えても、実際は美鳥の身体はどうしようもないくらいに疲弊していて、未だに完全な回復は見込めていないんです。……一般的な日常生活にも多少なりセーブが必要なくらいに。特に睡眠不足による疲れは覿面です。無理をさせたら、今度こそ壊れてしまう……だから……」
 黙って聞いていた本多が、電話の向こうで頷いたような気配を感じる。
『……わかりました。私共も極力注意するように致します。出来るだけ、朗さまのお気持ちに副えるように……』
「……ありがとうございます」
 多少なりとも、美鳥の行動の抑制になるならと、出来る限りの手を打っておく。
 それにしても、何と状況の変わってしまった事か──昇吾の溜め息は止まる暇(いとま)がなかった。
(……こんなに美鳥を遠く感じる日が来るなんて……)
 触れていなくても、触れる程に近く感じていたのに。今は素肌で抱き合っていても、遥か遠くに感じる存在になっている。
(……朗……どこにいるんだ……?……お前の事だから必ず無事でいてくれると信じている。……戻って来て欲しい……頼む……一緒に美鳥を止めてくれ……)
 美鳥が生死の境を彷徨っていた時、片時も傍を離れられないくらいに不安定だった時でさえ、感じる事はなかった程の無力感。朗が一緒なら、止められるような気がしていた。
(……約束を……全うしなければ……)
 部屋でひとり、項垂れているとノックの音。
「……はい……」
 扉が僅かに開けられ、美鳥が半身を覗かせた。
「用意、出来た」
 それだけ言うと背を向けようとする。
「みど……翠!」
 咄嗟に立ち上がり、腕を掴む。
「……頼みが……」
「……何?」
 無感情な瞳、そして声。
「……せめて、身体の事だけは優先して欲しいんです。出来るだけ、夜はちゃんと横になって休んで欲しい……」
 昇吾の顔を見上げ、すぐに目を逸らした。
「……考えとくよ」
 下を向いたまま答える。
 
 それから口もきかぬまま、ふたりは夏川の元へと定期検査に向かった。
 

 
 その後の美鳥の行動は早かった。
 
 すぐさま黒川玲子の父親・黒川莞二に間接的な接触を試み、巧みに追い詰めて行く。その様は、温室培養であるはずの美鳥が、一体どこで学んだのか、と思わせる程であった。
 
「……意外と娘想いでびっくり。……どんな娘でも可愛いって……親ってありがたいねぇ」
 抑揚のない声。
「まあ、あの親があの娘を育てたんだから、それも当然か……」
 次の一手を考えているのか、本多から届けられた報告書に目を通しながらひとり言のように続けた。
「……そろそろ片をつけるかな……」
 コーヒーを淹れる昇吾の手が止まる。互いに無言の時。触れるのを恐れるかのような間。
「……どうするんですか?」
 先に口火を切ったのは昇吾の方だった。目だけで昇吾の様子を確認した美鳥は、再度、目線を報告書に戻す。
「……一応、自分から娘さんを追いかけてもらう予定」
 特別な事はない、と言った口調。
「……今日、黒川は会合に出る。本人の気持ちとは関係なく、出なくてはならない集まりにね。帰りがけがいいかな」
 美鳥の唇の両端が持ち上がり、昇吾の瞼は伏せられた。

 ──夜。
 
「……翠……ぼくも一緒に行きます」
 昇吾の申し出に美鳥の視線が持ち上がった。
「……邪魔したり、止めたりはしません。ただ、黙って傍にいます」
 じっと見つめ、そして伏せる。
「……好きにすれば」
「好きにします」
 素っ気なく言う美鳥に、それでも昇吾は諦めてはいなかった。
 
 ふたりが表に出ると、伊丹の姿は見えず、本多がひとりで立っている。
「今日は本多さんひとり?」
 美鳥が訊ねる。
「……今夜は朗さまもご一緒かと思いましたので」
 すっかり行動を読んでいる本多に、美鳥の口角が持ち上がった。
「……さて、では、メインパーティー第一弾……」
 本多がドアを開けると、美鳥、続いて昇吾が乗り込む。本多が助手席のドアを閉めると、車は滑らかに走り出した。
 

 
 薬剤関係の大掛かりな集まりには、黒川は娘の喪中などと言っておれず出席するしかなかった。
 周りから口々に寄せられるお悔やみの言葉。だが黒川は、その事務的な言葉の裏には好奇の目を感じずにはいられない。娘である黒川玲子の評判は暗黙の了解であり、本当は周知されていたからである。
 父親として多少の情愛を持っている身としては、死んでしまった挙句に好奇の的になっている現実は辛いものがあった。
 ──で、あればこそ、美鳥はそこを突こうとしている。
「黒川様……ご伝言をお預かり致しました」
「……伝言?……私にか?」
 煽るように酒を飲んでいた黒川に、ボーイに扮した親衛隊のひとりが小さなメモのような紙切れを渡した。
「………………!」
 読んだ途端に黒川の顔色が変わり、キョロキョロと周囲を見回す。挙動不審を隠しもせず、慌てて会場を出て行く黒川を気に留める者は誰もいなかった。
 高層と言うほどではないビルの屋上ではあるが、関係者以外は立ち入り禁止区域となっている。その立札を無視し、黒川は屋上へと向かった。
 
 屋上には、眼下を見下ろしながら鼻歌を歌う美鳥。その耳に、鉄の扉が開閉した重い音が聞こえた。
「おい!誰かいるのか!?」
 美鳥は吹き出しそうになった。その声からは、どんなに隠そうとしても隠し切れない慄きが滲んでいる。虚勢を張っても却って逆効果であった。
「おい!一体、何のつもりだ!人を呼び出しておいて!誰なんだ!姿を見せろ!」
「そんなに騒がなくてもここにいるよ」
 黒川が硬直する。ゆっくりと美鳥が姿を見せると、驚愕に目が見開かれた。
「……お前が私を呼び出したと言うのか?」
 その言い方は、声で感じた印象は間違いではなかった、と言うかのような色。自分の娘ほどの年齢であろう美鳥に対する、あからさまな目下を見る目線。
「そうだよ」
 挑戦的な笑顔を向ける美鳥に唖然とする。
「お前のような小娘が私に何の用だ!しかも玲子の……娘を死に追いやった本当の犯人を知っているなどとぬかしおって……!しかも、私や玲子のやっていた事を公にされたくなければ屋上まで来い、だと……!」
 美鳥の目が楽しげな色を浮かべた。
「だからぁ……そのまんまだよ。その犯人を教えてあげるために、私が、あなたを、呼び出した。そして何のために殺されたのかも、ね。あなたたち親子が裏でやってる事をバラすなんてどうでもいい事……だって周知の事実でしょ?……言ってる意味わかった?」
 馬鹿にしたような物言い。黒川の顔が怒りで赤くなった。
「小娘が……!ならば言ってみろ!誰が娘をあんな目に遭わせた挙げ句に殺したのか……!」
「あなただよ」
 即答であった。この上なく美しい弧を描いた美鳥の唇が、何を言ったのか理解出来ず、黒川が動きを止める。
「元を正せば、あなたのせいだって言ってるんだよ、黒川莞二さん。意味、わかる?」
 唖然としたままの黒川に、美鳥が一歩踏み出した。
「……な、何を言っている!どう言う意味だ!」
「物わかりの悪い人だなぁ。良くそれで大手製薬会社の社長なんてやってられるね」
 クスクス笑う美鳥の顔を睨みつけ、怒りでこめかみに血管が浮き出る。
「小娘が……!私が一体何をしたと言うんだ……!」
 黒川の言葉に、美鳥の視線が凍り付くように冷たいものへと変化した。その圧倒的な冷たさに黒川が飲まれる。
「……だからぁ……半分はあなたが前にやった事の、とばっちり、って言ってるんだよ?昔、うちの屋敷に来てた事もあったよね……黒川莞二さん?お目にかかるのは何年ぶり?」
 美鳥の顔を凝視するも、憶えがない、訳がわからない、と言う表情。
「……わかんないかぁ……私の名前は松宮美鳥。私の父親は松宮陽一郎……五年前にあんたたちに殺された、松宮家最後の当主だよ」
 目を見開き、息を飲んだままの状態で、黒川は金縛りに遭ったように固まった。
「さすがに名前は憶えてた?そりゃ、そうだよね。だけどね?……あんたたちがあの事件さえ起こさなければ、あんたの可愛い娘はあんな無残な殺され方をしなくて済んだ……かも、知れないね?まあ、あくまで、かも、だけど」
 女友だちとの楽しいお喋りのような口調。見つめたまま微動だにしない黒川に、その目は硝子玉のように感情の色をなくして行く。
「……馬鹿な……生きているはずが……確かにあの時、娘の遺体も発見されたはず……」
 幽霊のように呟いたそのひと言が、全てを物語っていた。自分たちの犯した罪を。
「……私の代わりに『松宮美鳥の遺体』にされちゃって……ホント、可哀想に。ちゃんとDNA鑑定しなかったあんたちの責任だよねぇ?お陰で、あんたの可愛い娘は私たちと関わる事になって……」
 そこで一度言葉を区切った美鳥の、その表情が更に変化した。
「……私の一番大切なものを壊した……」
 静かに、だが凄みのある声で言い放ち、美鳥は微笑んだ。
 鮮やかに色づき、今を盛りと艶やかに咲き誇る大輪の花のように。匂い立ち、誘い込み、二度と逃れられぬ罠のように。
 瞬きも忘れ、美鳥に見入る黒川に近付き、顔を覗き込んで囁く。
「……お嬢さんが呼んでるよ?……寂しがって、苦しがって、どうして自分がこんな目に遭わなくちゃいけないの、って。……パパ……助けて……パパ……こっちに来て……ってね」
 魔物に魅入られたように、黒川は目を見開いたまま囁きを聞いている。
「……ほら……聞こえるでしょ?」
 そう言い、黒川の顔を彼方へと向けた。ビルのネオンが輝き、広がる夜景。
「あの谷間から、あなたの大切なお嬢さんの声が……」
 黒川の背をそっと押し出す。
「……玲子……」
 突然、娘の名を呼ぶと、黒川はフラフラと歩き出した。
「……玲子……玲子……すまない……今、助けに行くからな……」
 焦点の合わない目で呟きながら、操られたように屋上の際まで行く。柵に指をかけ、眼下を見下ろすと、自ら靴を脱ぎ捨てて柵を乗り越えた。
「……あ~あ……落ちちゃった……」
 薄笑いで言う美鳥。その後ろ姿を、握りしめて震える拳を壁につけ、瞬きも忘れた昇吾が見つめている。
「……あんたたちが捌いていた薬(やく)、値段の割りに効きが良くないみたいね。……でも、この薬を自分の身体で試すんなら本望ってモンでしょ?」
 脱ぎ捨てられた靴の下に、本多が紙切れを差し入れた。代筆した遺書を。
「……今、あなたのパパが助けに行ったよ、黒川玲子さん」
 手の上で、錠剤のタブレットを放り投げては受け取る動作を繰り返し、美鳥はひとり言を呟く。
「あなたのパパより、あなたの方が強かな気もするけどね」
 
 最後に付け加え、美鳥は可笑しそうに笑った。
 
 
 
 
 
 
 
 

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