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〘異聞・阿修羅王/結7〙弥勒の覚醒め

 
 
 
須彌山を包む光が
仄かになる頃
世界では日と月が
それぞれの場所で
姿を現すだろう

 弥勒(みろく)の覚醒(めざ)めと共に

 廊下の片隅で倒れていた乾闥婆(けんだっぱ)は、遠くの爆音で意識を取り戻した。

(……む……気を失っていたか。あれから如何ほど経っておる……?)

 力を入れると、動けるようにはなっている。

「……くっ……」

 とは言え、まだ身体の半分以上が目覚めていなかった。鉛のように重い身体を何とか持ち上げる。

(先刻の音は……いや、それよりも、阿修羅王と舎脂(しゃし)様は……)

 舎脂の部屋まで数メートル、跪座で歩を進める。

「…………!」

 中を見、目を疑った。

 そこにあったのは、舎脂の形をし、舎脂の衣(きぬ)を纏った、ただの人形(ひとがた)だった。いや、“抜け殻”と言った方が正しい。

「……これは……」

 無造作に散らばる衣にそっと触れ、瞬間、乾闥婆の記憶が解放された。

(そうか……弥勒の覚醒めか)

 自分たちが闘うなど無意味だ、と言う言葉に得心がゆき、娘・雅楽(がら)を想う。

「雅楽よ……そなたは立派に役目を果たしたのだな」

 感慨深げに、誇らしげに呟くと、舎脂の抜け殻を膝に乗せ、瞑目した。

 毘沙門天(びしゃもんてん)と緊那羅(きんなら)の前で、雅楽は休むことなく奏で続けた。阿修羅と舎脂がひとつに戻ったことも、今の城内の様子も、全てわかっていた。

「そなたは、阿修羅王より聞いていたのだな? 全てを……」

「……はい……」

 雅楽は目を瞑ったまま答えた。

「王はいつの世でも、必ず問われるのです。確認せずにはいられないのでしょう……」

 その様子は毘沙門天にも容易に想像出来、ひとり納得する。

「雅楽。城の内部の状況がわかるか?」

 瞑った眼(まなこ)の奥で、雅楽は何かを捉えようと意識をこらした。

「……城の西側……そこに、皆、集まっています。父はひとり離れておりますが。怪我を負われた方はないようです。……天と王以外は……」

「そうか」

 安堵、そして、懊脳。

 さしあたって、城の者たちが無事であると言うことに。結局、定められた通り課されたこと以外、何も出来ぬ不甲斐なさ、そして、やるせなさに。

「雅楽。もうひとつ、訊きたい」

「何なりと……」

「……阿修羅は……」

 言いかけて、続きを飲み込む。

「いや……いい。それより、直なのだな?」

「はい。もう、間もなくにございます」

 毘沙門天が頷いた。

(今さら、無事かどうかなど、直に全てが新しくなると言うに、気にするなど詮なきこと……)

 心内で自嘲し、緊那羅と並んで窓の外を見上げ、静かにその時を待った。

 吹き飛ばされた天井、崩れた壁。須羅(しゅり)の焔で赤々と照らされてはいても、宙は未だ暗かった。

 烟る土煙がようやく薄れかけた中に、影がふたつ。

 やや広げた脚を踏みしめ、僅かに前方に傾いで立つ須羅。

 拳を微かに震わせ、仁王立ちする摩伽(まか)。

 須羅は両肩口から先がなく、摩伽は両手脚の付け根と頸動脈脇を切られ、衣は朱染めのようになっている。

 惰性のように、一歩、二歩と進み、真向かう距離で止まった二人は、刹那、互いを凝視し合った。ふらりと倒れかかり、互いの身体を支え合うように膝から崩れる。

「……大した力ぞ……」

 荒い息の下(もと)で摩伽が洩らした。返事はなくとも、摩伽の肩口に頭(こうべ)をもたれた須羅が、あの見慣れた笑みを浮かべた様が手に取るように浮かぶ。

「須羅……思えばお前は、昔から隠し事が多かった。いつも肝心なところを言わぬ」

 時の訪れ。来(きた)るべき闘いの最中(さなか)にあって記憶の大部分が解かれ、何より閃光の中で、摩伽は初めて気づいた。須羅の耳飾りに。

 左の耳には阿修羅族の耳飾り、右の耳に光っているのは、破損したものの代わりにと、摩伽が舎脂に与えたそれだった。

「皆が皆、何でも言えば良いというものではなかろう。その時、その場に必要なものだけを出すが役割というものだ」

「減らず口を……」

 己が求めていたはずの結末に、摩伽も皮肉で返すしかなかった。

「何故(なにゆえ)、お前の本質を育む身体が舎脂の……いや、女子(おなご)の性だったのだ?」

「私は、お前が新(さら)にした須彌山を浄化し、新たに構築せねばならぬ。そのために、女子の持つ力をも併せ持たねばならなかった」

「それで、必要とあらばどちらにでも成り得る、か……」

 摩伽は、今、時が止まればいいとすら思った。だが、須彌山を統べる役目を、その責任を、放棄するなど到底出来ない。

「始めからおれは、お前の掌で転がされていたのだな。まあ、それも良いか……」

「人聞きの悪い言い方をするな」

 変わらぬ物言いに安堵し、思わず口角が上がる。

「あと、如何ほどだ?」

「もう、直だ」

「……そうか……」

 摩伽は腹を決めた。それでも、どうしても払拭しきれない疑問が残っている。

「だが、やはり解せぬ」

「まだ何かあるのか」

 苛立ちはなくとも、呆れた口調。

「お前は何故と思う……?」

「何がだ?」

「おれが全てを知っておれば、こんな回りくどいやり方は不要のはず……さすれば、お前と袂を分かつ必要もなく、天を二分することもなかった。何故、おれに記憶の欠片すら残さぬ」

 その一点に於いて、摩伽は納得が行かなかった。天ともあろうものが、この事態を見越せぬはずがない、と。であれば、これは故意であろうし、では、それは一体何のためなのか。

「……おれにはわからぬ」

 須羅の答えには間があった。

 それが、須羅なりの答えを探している間なのか、納得させる答えを探している間なのか、それとも、知っている真実を告げることへの躊躇いなのか、摩伽にはわからなかったが。

「……慈悲だ……」

「……何……?」

 予想していなかった答えにたじろぐ。

「我らは、五十六億七千万年ごとに繰り返される弥勒の救済に合わせ、須彌山を新たにする」

「そんなことはわかっておる」

「そのたびにお前は、幾度(いくたび)も須彌山を壊さねばならぬのだ」

「だから、それがどうしたと言うのだ」

 知りたいのはそんな事ではない、と言う風に語気が強まる。

「その記憶が全て、少しも褪せることなく残るのだ。一度や二度ではない。お前が心血注いで護って来た須彌山を、他ならぬ己の手で消し去る記憶が全て、だ。役目と言えど、それをどう思う? 消し去るために在る、のではなく、互いに闘神として闘い、守った故、の方がまだ良かろう」

 さすがの摩伽も言葉が出なかった。耐えられぬ、とは思わずとも、微塵も辛さを感じぬか、と問われれば、それは『否』である。だが、それが『役目』と言うものなのではないか、とも思う。

「……だからと言って……」

 尻すぼみになる答えに、須羅は微かに睫毛を陰らせる。

「……故に、その記憶は全て私が負うてゆく」

 摩伽の眼が見開かれた。

「私は、そのためにも在るのだ」

 息を止めた摩伽の胸郭が、須羅にわかるほど大きく膨らむ。

「……そうか……」

「そうだ」

 摩伽は何かを堪えるように瞑目した。互いの顔は見えなくとも、様子は手に取るようにわかる。幾億年を経ようとも。

 無言の二人の間を、その数十億年の過去が一瞬にして流れてゆく。

「……そろそろ行くか」

「ああ」

 名残を惜しむように切り出した摩伽に、須羅が変わらぬ口調で答えた。

「……今、こうして話したことすら、おれの記憶には残らぬのだな。次に逢う時には……」

「案ずるな。代わりに私が憶えている」

「それが狡いのだと、先刻よりそう言うておるではないか」

 その物言いに、二人の口角が上がる。

 須羅の背後に伸ばした摩伽の手に、ヴァジュラ──金剛杵(こんごうしょ)が現れた。

「良いな?」

「構わぬ。どの道、私のこの腕ではもう無理だ」

 摩伽の第三の眼が、目覚めの時を迎えたように瞼をもたげた。同時に、金剛杵が仄かな光を帯びる。

「……ひと足先に行っておるぞ」

「ああ。待っておれ。すぐに追いつく」

 薄く笑んでいるだろう須羅の顔を思い浮かべ、摩伽も口角を緩めた。だが、次の瞬間には第三の眼が強烈な光を放ち、金剛杵が大剣の形に変化(へんげ)する。

 それは、大剣と呼ぶにはあまりに巨大であった。光の帯のような刃(やいば)が須羅と摩伽の中心を貫き、そのまま城の床を、須彌山の地表を突き抜けて伸びてゆく。

 やがて、地を穿つ大剣の鋒が核に到達した時、須羅の額に赫い光が灯った。

 少しずつ大きくなってゆく光は、摩伽と須羅を諸共に飲み込み、さらに広がり続けると、いつしか須彌山全体を包み込んだ。
 
 
 
 
 

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