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〘異聞・阿修羅王22〙汚名

 
 
 
 舎脂(しゃし)は背を正し、ついと膝を真っ直ぐインドラに向けた。

「摩伽(まか)様は……我が王を厭うておられるのですか?」

 インドラの瞬きが驚きで止まる。

「……そなたは父を、父、と呼ばぬのか?」

 質問で返され、少なくとも表面上、舎脂の表情は変わらなかった。だが、内心では、インドラが重きを置く優先順位に驚いていた。

「いえ、幼き時は……長じて、そう呼ぶよう言いつかりました」

「誰にだ?」

「母にございます」

 インドラが、今度は意外そうな表情になる。

「母のことは母と呼ぶのに、か?」

「母は母でございます故……」

 それもまた、不思議な答えと首を捻った。とは言え、それ以上は堂々巡りになると察し、話を差し戻すことにする。

「……そうか。では、何故(なにゆえ)、おれが阿修羅を厭うておると?」

 己から言い出したにも関わらず、舎脂は一瞬、言葉に詰まった。正確には、どう言うべきか迷ったのだが、すぐ思い立ったように唇を動かす。

「厭う、と言うと語弊があるかも知れません。どのように……いえ、むしろ、反するよう、煽っているかに見える、と言った方が正確でしょうか」

 薄く笑ったインドラは、舎脂の言葉には答えようとしなかった。

「如何なる理由があろうと、おれはおれに剣を向けた者は敵と見做す。それが例え阿修羅であろうと、毘沙門天であろうと……容赦はせぬ」

 傍若無人と言えなくもない論理だったが、多少強引、と言う程度で済ませられなくもない。このように娶られる女がいない訳ではなく、ましてインドラともなれば、それが罷り通る立場でもあった。例え、手順を端折ったとして、正妃として立てる、と言われれば、栄誉と受け取りこそすれ、よもや受け入れないなどとは考えられない。

「……王は……このまま引いたりはしないでしょう」

「なれば、八部衆の一員であっても、あやつは裏切り者となる。そなたはここに留まったことで、その汚名から免れたのだ」

 運命(さだめ)と受け入れよ──インドラの眼(まなこ)はそう言っていた。だが、今以て鋭い眼差しを向けて来るインドラに、舎脂は怯えも見せず、むしろ強い意思を称えた眼で対する。

「……『反逆者の汚名』を免れる代わりに、わたくしに別の汚名を負え、と仰るのですね」

 インドラの眦が、一層、鋭さを増した。

「何が言いたい?」

「今の摩伽様のお言葉は、わたくしに我が一族を、我が王を裏切れと……阿修羅族の裏切り者の汚名を着よ、と仰っているも同然、と申し上げております」

「……何だと?」

「貴方はわたくしに、余地のない二者択一を突き付け、否応なしに選ばせた、と申し上げているのです」

「…………!」

 柳眉を吊り上げ、インドラが立ち上がった。

「反逆者の汚名か、裏切者の汚名か……けれど、わたくしが我が王を裏切るなどありえないように、王が忉利天(とうりてん)の裏切り者になるなど絶対にありえませぬ」

 その返答は、阿修羅の行動は間違っていない、と言っているも同然であった。その責はインドラにある、と。

 毅然と言い放つ舎脂を見下ろす表情には、怒りよりも、どこか敗北感のようなものが強く浮かんでいた。だが、それを認めて折れるようなインドラでもない。

「……では、そなたには裏切者の汚名を被ってもらう」

 舎脂が喉を締め、唇を引き結んだ。正に、睨み合う、と言う表現に見合った緊張が走る。

「阿修羅王の娘・舎脂よ……そなたには、我が正妃として振舞い、役目を果たしてもらう。昼間の部屋は別に与えるが、夜はここにいよ。無体を強いるつもりはない。が、おれと、正妃の寝所はこの部屋と決められておる。故に、正妃として、必ずここで眠れ」

 舎脂は口の中で何かを唱えた。インドラにも聞き取ることは出来なかったが、確かに、何かを。それを問う前に舎脂の唇が動く。

「……では、摩伽様も、この寝所には他の女子(おなご)を決して入れぬ、と、お約束くださいますな」

「無論だ。ここはおれの寝所……正妃である、そなたとのな。何人たりとも踏み入れさせぬ」

 微かに片目をひくつかせ、インドラが返した。瑠璃色の瞳は、そんな彼を飲み込むように見つめている。

「相わかりました」

 まるで対等の立場だと言わんばかりの返答に、インドラは不可思議な気持ちを抱いた。それは、怒りとも腹立たしさとも違うが、かと言って、単純に高揚感とも言えない。しかし、逆に言えば、全てが綯い交ぜとも言える。

 己から見れば小娘でしかない舎脂の、最高位を前にしてまつろわぬ様に、どこか懐かしさと、同時に畏怖にも似た念を憶えていた。

「……言いおるわ……」

 思わず、苦笑いと不敵さが入り混じった笑みが浮かぶ。

(血の成せる業(わざ)か……)

 皮肉なものだった。己が求め、正妃の条件として公言していたものを兼ね備えた女が、よもや阿修羅王の娘であったなどと。

「……手を出せ」

 訝しみながらも、言われた通りにした舎脂の掌に、何か小さなものをするりと滑らせる。

「……これは……」

 乗っていたのは耳飾りであった。自分には分不相応な品であると、ひと目でわかる。

「……そなたの耳飾り、先刻、片方損じた故な。気に入らずば、どこへなりと捨てよ」

 そう言って、全てを振り払うが如く、インドラは舎脂を残して部屋を後にした。

 阿修羅が蜂起したとの報がもたらされたのは、それからすぐのことである。
 
 
 
 

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