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かりやど〔弐拾八〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
これ以上、何も奪わないで欲しい
自分のために全てを手放した人から
 
 

 
 

 前夜、美鳥に『バイトを辞める』と告げた昇吾が、必要な書類を提出するために出掛けて行ったのは昼頃であった。
 春さんには、「2時間程で戻れる」と美鳥のことを頼み、社へと急ぐ。
 
 見送った春さんは、美鳥の好きなパイを焼き始めた。昇吾が戻って来たらお茶にしようと、その間に美鳥のさらさらの髪の毛を揃えたり梳いたりしながら待つ。
 
 しかし、平和なはずの午後は、突然の侵入者によって硝子のように打ち砕かれた。
 
 なかなか戻って来ない昇吾に、美鳥の気持ちが落ち着かなくなって行くのが春さんにもわかり、内心ヤキモキする。「今のうちに昼寝をしておいては」と促すと、拗ねたような、不安げな、暗い顔をしながらも、おとなしく部屋に入って行った。
「……遅くなるのにご連絡もないなんて……朗さまにしてはお珍しい。……何事もなければ良いけれど……」
 心配しながら時計を見れば、既に3時近い。
「……お電話をしてみた方がいいかしら?」
 思い立った春さんが電話の方を見た時、玄関のインターフォンが鳴った。
「あらあら、お帰りだわ。良かったこと。鍵でもお忘れになったのでしょうかねぇ」
 ひとり言を言いながら玄関に向かうと、外から聞こえて来たのは管理人の声。
『小松崎さん。すみません……管理室の者ですが……』
 もちろん、春さんも管理人の事は知っている。
「はいはい、どうなさいました?」
 何かあったのかと慌てて返事をし、急いで扉を開けた、その時──。
「……何ですか、あなたたち……!?」
 人の好さそうな管理人の背後から、いきなり現われた男たちに春さんは仰天した。良く見れば、見るからに胡散臭い風体の男たちが、管理人を後ろ手に拘束している。
「おい。その管理人は縛ってどこかへ放り込んでおけ」
 リーダー格の男の言葉に、管理人が引きずられて行った。次いで「……よし、探せ」と言い放つと、他の男たちが土足で上がり込もうとする。あまりのことに、春さんは驚愕した。
「何をするんです!やめてください!」
 必死に食い止めようとすると、
「おーい、ばあさん邪魔だよ」
 そう言って、ひとりの男が春さんを拘束する。
「怪我したくなかったらおとなしくしてな」
 必死に抵抗するが、敵うはずもなかった。
 
 眠れずに部屋でひとり、ベッドに横になっていた美鳥は、遠くに聞こえた物音で身体を起こした。
「…………春さん…………?」
 何か物音と共に声が聞こえる。
(……昇吾が帰って来た……?)
 そう思って身体を起こした瞬間、ノックもなしにいきなり扉が開け放たれた。
「………………!」
 驚きで反射的に身を引く。
(…………何…………?…………誰…………?)
 わからずとも、見えずとも、嫌な気配しか感じない。
「……へへへ……見~つけた」
 下品そうな男の声に、美鳥は硬直した。
「おい!いたぜ!」
 その男が外に向かって呼び掛けると、足音と共に別の気配が近づいて来る。口笛の音が響き、何人かいると思われる男の下卑た薄ら笑いが重なった。
「……期待以上だな。こりゃあ、楽しみだ」
 別の男の声に、本能的な恐怖と拒否反応で美鳥の全身が総毛立つ。
(……誰……?……何なの、この人たち……?……昇吾……昇吾……助けて……怖い……)
 心の中で叫んだ時、不意に腕を掴まれ、反射的に振り払おうとした。もう片方の手で、手元にあった物を投げ付ける。
「ほいほい、おとなしくしてちょーだい」
 面白がるような声の男に両腕を掴まれ、ベッドから引きずり下ろされた。
「……や……離して!」
 もがきながら叫んだ美鳥の声に、リビングから春さんの悲痛な声が響く。
「やめてください!お嬢様は身体の具合が良くないんです!無体なことは……」
「うるせぇ、ババァ!」
「……あ……!」
 男の怒号に春さんの悲鳴が重なり、美鳥は目を見開いた。
「……春さん!春さん、どうしたの!?……やめて!春さんに乱暴しないで!……春さん……春さん、大丈夫!?……返事して!……春さん!」
 必死に身を捩る美鳥を、半ば引き摺りながら連れて行こうとする。
「……春さん……春さん、返事して!春さん!」
「うるせぇな、黙れよ」
 男が美鳥の身体を抱え上げた。
「……やだ、離して!」
 渾身の力で押し遣ろうとした、その時──。
「うるせぇつってんだよ!!」
 怒号と共に鈍い音が響く。
「………………!」
 冗談ではなく、美鳥は目から火花が飛び散る、と言う感覚を初めて知った。しかし、何が起きたのかは認識出来ず、ただ意識だけが飛びそうになる。
 朦朧とした意識。痺れた頬が熱くなり、やがて痛みを伴い始めた。
「おいおい、あんまり傷つけるなよ。せっかくのお楽しみが台無しになるだろうが」
「……すんません」
 意識の遥か遠くに男の声が聞こえる。自分が酷く殴られたのだとわかったのは、口の中に広がる生暖かい錆の味を感じた時であった。
 だが、その時には既に気を失いかけており、僅かに残る意識の核には、生まれて初めて直接的に受けた暴力への驚愕と恐怖。閉じた瞼から涙が伝う。
 次第に、恐怖も何もかもが闇の中に飲み込まれた。完全に意識を失った美鳥は、男たちに運ばれて行く。
 
 後に残ったのは、嘘のような静けさと、室内に残る確かな痕跡だけであった。
 

 
 必死で美鳥を追っていた昇吾は、居場所を示す光の動きが遅くなった事に気づいた。
(……目的地に着いたのか……!?……まずい、急がなければ……!……美鳥がどんな目に遭うか……!)
 アクセルを踏み込む。
 ただでさえ、美鳥は目も見えない。その上、春さんは『変な男たち』と言っていた。そんな奴らに連れ去られて、どれほど恐ろしい思いをしているのか……考えただけで、昇吾の方が気がおかしくなりそうであった。
 
 何とか追い付き、美鳥の居場所まで僅かの位置まで来ると、昇吾は目立たない場所に車を停めた。
 目の前には廃屋らしき建物。何かの倉庫のようにも見える。恐らく、奴らの溜まり場のひとつ、なのだろう。
 そこに、一台の車が走り込んで来た。敵の車かと一瞬ヒヤリとする。
「朗さま!」
 だが、それは幸い本多の車だった。素早く車から降りた本多が、昇吾の方に向かって来る。
「どうやら私たちが一番乗りのようです」
 昇吾は頷き、銃を確認した。出来ることなら使いたくなかった、と思いながら。
「本多さん、後をお願いします。ぼくはこのまま乗り込みます」
「朗さま!危険です。せめて数人、到着するまでお待ちください!」
 本多の言葉に昇吾は首を振る。
「待てません。遅くなればなるほど、美鳥がどんな目に遭うかわからない。後は頼みます!」
 言い放ち、本多の返事は待たずに廃屋に向かって走り出した。
「朗さま!いけません!」
 本多の声が追いかけて来たが、昇吾は止まることなく裏口の方へ消えた。本多は急いでマイクに向かって親衛隊員に指示を送り、自身は表側の入り口へと向かう。
 
 裏口に回った昇吾は、中を窺い、扉の隙間から忍び込んだ。奥へ進んで行くと、見張りと思しき男がひとり、つまらなそうに立っている。
 昇吾は手前の扉に身を隠し、辺りを見回した。その場には、見張りはひとりしかいない。
(……手段なんか選んでられないな……)
 一丁の銃から弾を抜き、宙に向けて空砲を一発放った。廃屋内に乾いた音が響き渡る。見張りの男がビクリと身体を震わせ、慌てて周囲を見回した。昇吾が銃で壁を叩き、自分の方へと誘導する。
 男が自分の前を通り過ぎた瞬間、延髄へ一撃を食らわすと、男は白目を剥き出して前のめりに倒れた。
 昇吾は少し奥の部屋に移動すると、次いで二発目の空砲を放つ。
 ほんの数秒も経たないうちに、遠くからバタバタと足音が響いた。隠れて遣り過ごすと、血相を変えて駆けて来た五人の男たちが、先に倒した男を見つけて駆け寄る。
「おい!どうした!?」
 起こしながら辺りを窺うと、不安げに顔を見合わせて頷き合い、その男を担いで去って行った。銃声に驚いて慌てて逃げたらしい。
 それを確認した昇吾は、銃に弾を詰め直し、足音を忍ばせながら奥へ進んだ。人の気配は感じない。
(さっき逃げた男たち以外にはいないのか……?)
 それでも用心しながら歩を進める。すると、半開きの扉から灯りが漏れている一室。
(あの男たちの溜まり場か?美鳥はどこにいるんだ?)
 壁づたいに近付き、そっと中を覗く。やはり、さっきの男たちが溜まっていた部屋なのか、人のいる様子はなかった。
 息を飲み、銃を構えながら足を踏み入れる。部屋の奥に目を向けた瞬間──。
「………………!」
 目に飛び込んで来た光景に、昇吾の頭の中は真っ白になった。だが同時に、目の前は底なし沼のようにどす黒く暗転する。
 その場に立ち尽くし、瞬きも出来ず硬直した。吸っても吸っても、まるで肺が機能していない感覚。いや、心臓すら。自分の全てが闇に囚われたような気さえしていた。
 肩で大きく呼吸をし、それでも酸素が入って来る気がせず、酔っぱらいのように、酸欠のように、ふらついて二~三歩足が動く。
 今、自分の目に映っているのは現実なのか──それすらもわからないほどの衝撃。
 目眩を覚え、昇吾は天地が逆転して倒れそうになった。足と意識を踏ん張り、何とか持ちこたえる。
 
 昇吾の目に飛び込んで来たもの──それは部屋の奥、古びたマットの上。
 
 ほぼ何も身に着けていない状態で、無造作に転がされた小さな身体。
 その白い身体の至るところに無数の傷と痣、手足には縛られた痕。その上、手首足首には押さえ付けられた痕も重なり、酷い内出血を起こして真っ青になっている。
「…………み…………」
 美鳥、と呼ぼうとして声が出ず、昇吾の全身が震えた。まるで幽霊のような動き。やっとのことで、足だけが前に出る様子は、正に幽鬼であった。
「…………美鳥…………」
 呼んでもピクリとも反応せず、昇吾には生きているのかさえわからない。
「…………美鳥…………!」
 近づいて顔を見た昇吾は息を飲んだ。
 美鳥の顔は両頬とも酷く腫れ上がり、唇の端には血が滲んでいる。かなり強く殴られたことが見て取れた。
「…………美鳥…………美鳥…………美鳥…………!」
 傍らで、昇吾は膝から崩れ落ちた。
「…………何て…………何て事を…………!」
 震える手を近づける。
「……美鳥……!……美鳥!……美鳥!」
 そっと抱き起こすと、今、自分が朗としてある事も忘れ、ひたすら呼び続けた。
「……美鳥……!……美鳥、頼む……!……目を開けてくれ……!」
 しかし、美鳥の目は固く閉じられ、もう二度と開かないかのように思えた。その時──。
「………………」
 僅かに眉根が反応した。
「…………美鳥!」
 確かに、苦痛に歪むように眉が動いている。
(……生きてる……!)
 昇吾は急いで上着を脱ぎ、美鳥の身体を包んで(くるんで)抱え上げた。小型マイクで本多に呼び掛ける。
「本多さん!美鳥を見つけました!すぐに夏川先生のところに……!……運転を頼みます!」
『わかりました。車を裏口に回します』
 
 美鳥を抱え、昇吾は走った。
 
 美鳥が『そう言う意味で』乱暴されたのか、昇吾には判断が付かなかった。
 発見した時の状況に於いて、希望的観測は一切出来なかった。
 無事であるなどと、あまりにも低い可能性だとわかっていて、それでも願わずにはいられない。そんな事が現実であるはずがない。
 ──祈りながら、昇吾はひたすら走った。
 
 表に飛び出すと、既に本多が待っていた。
「先生には連絡しておきました」
 そう言った本多は、昇吾の腕に抱かれている美鳥の姿を見て動きを止めた。
 上着に入り切らずに垣間見える脚。その痕跡から、一瞬で状況を把握した。何も言わず、手早く車から毛布を取り出して広げる。
 美鳥の全身を包んだ昇吾がリアシートに乗り込むと、本多は運転席に回った。
「……急ぎますので、少し荒っぽくなるかも知れません!辛抱してください」
「……大丈夫です……!……とにかく急いでください!」
 
 夏川のところへと向かいながら、本多は昇吾に言った。
「表側にあった奴らの車に、発信器をつけておきました。こちらに向かっていた者たちに、さっき逃げた連中を追跡させています。必ず、ひとり残らず捕まえるように言ってあります」
「……ありがとう、本多さん。……必ず、捕まえてください……!……全員、必ず……!」
 本多が頷く。
 
「……絶対に……赦さない……」
 
 腕の中で、固く目を瞑ったままの美鳥の顔を見つめながら、昇吾は自分の中で何かが砕けてしまった事を感じていた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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