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かりやど〔拾伍〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
こんなにも思っているのに
何よりも思い合っているのに
 
心はすれ違っていないのに
 
何故、行為だけがすれ違う
 
 

 
 

「きみはどう思う?」
 翌日の予定を確認していた小半に、副島がひとり言のように声を掛けた。
「……は……?」
 唐突な副島の問い掛けに、小半は訳もわからず顔を上げた。
「……夏川くんの話だ」
 一瞬の間。
「……それは……先生がお決めになられたことですから、私には何も申し上げることは……後は夏川さん次第かと……」
 小半の回答は模範的なものに終始した。
「……いいのか?」
「……は……?」
 更なる副島の問いに、困惑を隠し切れない顔。
「彼女に想いを寄せているだろう?」
 己の心の内を見透かす言葉に、小半は思わず息を飲んだ。
「彼女の力は魅力的だ……財力も含めて。最初は、きみに彼女を添わせようと思っていたのだ。確実に取り込む一番手っ取り早い方法だからな。堀内たちがいない今、これから必ず彼女の力が必要になるだろうし、きみは彼女に興味を持つだろうと確信していた。きみなら彼女と巧くやれるんじゃないか、との目算もあった」
「……先生……」
 そこまで読まれていたと言う思いと、副島になら読まれていても当然であると言う思いが、小半の中でない交ぜになって蠢く。
「……だがな……」
 副島は嘆息した。
「……困ったことに、私自身が囚われてしまった。まさかこんな歳になって、と思ったが……」
「……この際、年齢は関係ないかと……」
「……厳密にはある。いや、気持ちの上でならその限りではないがな。きみにもいつかわかるだろうが……だが、それを押し破ってでも手に入れたい何かが、あの娘にはある。彼女を見ていると、遠い昔の何かを思い出す……あの瞳が思い出させるのだ……」
「……大切に思っていたどなたか、ですか?」
「……それがはっきりせんのだよ」
 副島が困ったような顔をする。
「……まあ、どちらにしろ無理強いをするつもりはない。彼女の機嫌を損ねて、莫大なバックアップを不意にするつもりはないからな。彼女自身がきみを選ぶと言うのなら、それも構わん。だが、もし、彼女が私の申し入れを承諾した時には……」
 そこで区切り、副島は真っ直ぐに小半の顔を見据えた。
「どうせ、この年寄りが彼女を手に入れておける時間など数年だ。……それまで、私に貸しておけ」
「………………!」
 驚いた小半の手が止まる。
「……そう言うことだ」
「……先生……」
「……彼女の気持ちの上で、ひとつだけ障害になるとしたら、あの新堂龍樹と言う男……もしくは別の男、かも知れないがな……さて、ひとり言は終いだ。私は引き上げて休むとする」
「……はい。……失礼致します」
 副島を見送り、小半は再び仕事に着手した。が、なかなか集中出来ず、手が切れ切れに止まる。
「……どんなことをしてでも、自分のものにしておくべきだったのか……?いや、もしあの時、彼女を抱いていたとしても、手には入れられていなかった気がする……」
 ひとり言を言いながら、小半は副島の申し出を聞いた時の翠の様子を思い出していた。
 ──確かに驚いてはいた。じっと副島の顔を見つめる目は、瞬きもほとんどしなくなっていた。にも関わらず、どこか他人事のような、絵空事を聞くような、そんな目をしていた、と。
 それを見た時、小半は直感的に感じたのだ。本当の意味で、彼女を手に入れられる男はいないかも知れない、と。
 そして、恐らくは副島も、同じことを感じているのだろうとも考えた。それでも抗えないほど、一部でもいいから手に入れたい衝動に駆られるほど、『夏川美薗』と言う存在に囚われたに違いない、と。
 副島から夏川美薗への思いを聞かされた時点で、小半はある種の冷静さを取り戻した、とも言える。
 例え、彼女を手に入れたい気持ちが変わった訳ではなくとも。
 

 
 翠の顔を見つめたまま、朗は微動だに出来なかった。
 翠の方は、一点を見つめて無表情のままである。
 まず何より、朗は自分の耳を信じることが出来なかった。何を聞かされたのかすら、霧の中に霞んでいるかのようで、はっきりとした輪郭すら見えない。
「……副島が本当にそんなことを……?」
 翠の肩に両手を掛け、朗は祈るように確認する。それがようやく出せた言葉であった。
「……本当だよ。昨日、小半に言われた時は冗談かと思ったけど」
 何でもないことのように、翠は坦々と答える。朗の中には驚愕と同時に憤りが湧き上がった。
(……美鳥から全てを奪ったひとりが……今度は美鳥自身を手に入れようとするなんて……!)
 肩を掴んだ朗の手が怒りで震える。
「……それで……?」
 翠は何と返事をして来たのか。もしかしたら、すぐにでも宣戦布告をすることになるのか。それとも、既にして来たのか。どちらにしても、すぐに全面的に争う手筈を整えなければならない、そう考えていた。──が。
「……乗るか乗らないか、考えてるとこ」
「………………っ!」
 その答えに、朗の思考は真っ白になった。
「何を言ってるんです!考えるまでもないでしょう!こんな要求、受け入れられる訳がない!」
 更にこもった手の力に、翠が眉根を寄せる。
「……っ……!……痛っ……朗……痛いよ……!」
 だが、朗は力を弛めるどころか、さらに翠を引き寄せた。
「……何を言われたのか本当にわかっているんですか!?あなたから全てを奪った男が、あなた自身をも手に入れようとしている……あなたの身体までも自由にしようとしているんですよ!?」
「わかってるよ」
「ならば、何故、その場で断らなかったんです!?考える必要など、これっぽっちもないでしょう!?」
 朗にしては珍しいくらいに声を荒げていた。呼吸までが荒くなり、肩が大きく上下する苦し気な顔を、翠が感情のこもらない目で見つめる。それは、己の心を波立たせないためなのか、それとも本当に何も感じていないのか──。
「……最大の仇である副島に身を任せる必要がどこにあるんです……!」
「……それで目的に近づくなら手っ取り早い」
 まるでゲームの攻略のように言い放ち、翠は顔を背けた。朗の瞬きが止まる。
「……本気で言ってるんですか……?」
「……本気だよ。だから考えてるところって……」
 瞬間、朗の目が本気の怒りを湛えた。
「……小半をオトすだけならまだしも、一番の標的である男……しかも、あなたから見たら祖父と言ってもおかしくない相手ですよ……!?そんな男に抱かれてまで目的を果たして……本当に皆が喜ぶとでも思っているんですか!」
 翠は横を向いたまま、朗と目を合わせない。
「……もう、やめましょう、翠……これ以上、続ける必要はない……あなたが幸せになれないことを。……これ以上、自分を粗末にしてはいけない……お願いですから……」
 震える声と手。背けた翠の横顔を見つめ、朗は文字通り懇願した。
「………れば………るの……?」
「……え……?」
 翠が何かを呟いているのに気づき、朗は聞き取ろうと顔を寄せる。
「……やめたら幸せになれるの?……自分を粗末にしなかったら幸せになれるの?……粗末にしないってどう言うこと?……幸せになるってどう言うこと!?……どうなれば幸せって言えるの!?」
 次第に大きくなって行く声は、最後には叫びへと変わっていた。顔を上げ、朗の目を見据える。
「……翠……」
「……ねぇ、何が幸せなの?どうなれば幸せって言えるの?何で今の自分の望みを叶えることが幸せじゃないの?皆が喜ばないって……もう、いない皆を喜ばせるために幸せにならなきゃいけないの?自分が幸せって感じない幸せに?皆に幸せだね、って言われる幸せになるために?皆が喜ぶ幸せって何?何のために『幸せ』になるの?『幸せ』になったからって、もうこの先には何もないのに?」
「……す……」
 翠の迸る訴えに、朗は困惑していた。言葉が出て来ない。真っ直ぐに自分を見つめる瞳に囚われたまま硬直する。
「……もう、いない人、だけじゃありません。夏川先生、佐久田さん、春さん、松宮に仕えていた人たち……皆があなたの幸せを願って……」
「……『皆の願い』のために、私は自分のたったひとつの望みを捨てなくちゃならないの?自分の望みを叶えるために仇の男に抱かれるのはダメで、皆の願いを叶えるために望みを捨てるのはいいの?自分の身体を使うだけなのに?どうせ、何も感じない……たかだか、ほんの一時、目を瞑ってればいいだけじゃん!」
「翠!」
 乾いた音が響いた。頬を押さえた翠が俯き、朗が大きく息を吐く。
「……何てことを……!」
 翠が不満を湛えた上目遣いで朗を見遣る。
「……何が違うの?……朗とだってしてるじゃん……朗としてるのだって結局は同じことだよ!」
「違う!」
「違わないよ!誰が相手でもやってることは同じだよ!自分だけが違うみたいなこと言わないでよ!朗だって相手が私じゃなくたって同じことするんでしょ!?同じように……」
「……翠……!……翠!……翠!!」
 翠の肩を揺すりながら朗は絶叫した。
「……そんな気持ちで……ぼくが、そんな気持ちであなたを抱いていたと……本当にそう思っているんですか……!?……どの女でも同じだと、本気で……!」
 再び顔を背け、翠は何も答えない。
「……女だけじゃない……男にだって心がある……気持ちも、感情も……身体とだって繋がっているんです。身体だけの衝動で抱くのと同じ訳じゃない……心の充足とは違うんです……!」
 ピクリとも反応しない翠に、更に朗は続けた。
「……何故、他の望みを見出だそうとしないんです……?……夏川先生が、春さんが、皆が……あの時、不眠不休で……必死で繋ぎ止めたあなたの命を……どうしてすり減らす方にしか使おうとしないんです……!……どうして、先に繋げようとしない……!」
 翠の肩を掴んだまま下を向き、強く目を瞑った朗が声を絞り出した。しかし、朗の魂の叫び、とも言えるその言葉を聞いても、翠は頬を押さえて下を向いたままであった。
「……先に繋げる……って……繋がらないよ……もう……」
 聞き取るのが困難なほどに小さな翠の声。朗が顔を覗き込む。
「……そんなことはありません……!……あなたが他のものを見ようとすれば変わる……そして、あなたの運命も命も未来に繋がるんです……!」
「……他のものを見れば何かいいことがあるの……?」
「……翠……!……何故、そんなに自分から捨てようとするんです……?……何故、見ようとしないんです……?……何故、繋げようとしないんです……?……何故、そこまで……」
「……繋がらない……」
「繋がります……!あなたが手に入れようとしていないだけ……」
「……入らないよ!」
 翠が叫んだ。驚きで朗の言葉が止まる。
「……翠……」
「……掴もうとしたって……未来も命も繋がる訳がない……だって、無理なものは無理なんだから……」
「……どう言うことです?」
「………………」
 翠が朗の目を見据えた。
「……翠……何を隠しているんです?」
 問われ、肩を掴む朗の手を静かに外して背を向ける。
「…………ない……」
「…………?」
 翠は立ち上がり、壁に背を預けて朗の目を見た。
「……私には生命(いのち)を宿す力がないもの……」
「……え……?」
 翠は広げた両手を自分の腹部に当てる。
「……私には生命を紡ぐ機能(ちから)がないから……」
 朗の呼吸が止まった。瞬きも、動きも、全てが。
「……知らなかった?」
 問われても思考は動かず、部屋の中の全てが、まるで時間までが止まったかのように感じる。自分の耳が何を聞いたのかさえ疑わしい。
 己の鼓動の音だけが、脳の中にこだましているのがわかる、それほどの静寂。見つめ合い、それでも互いに声は発することはなく、ただ、ふたりがある空間。
 だが、本当の意味で朗を驚愕させ、衝撃を与えたのは、翠から放たれたその後の言葉。
「……ああ、そっか……知らなかったよね」
 何かを思い出し、少し困ったような表情──。
「……昇吾(しょうご)は……」
 
 その途端、驚愕に見開かれた目。
 鼓動を打っているのに、無理やり心臓を握り潰されたような。
 吸い込んでも吸い込んでも肺に入って来ない酸素。

 朗が翠の顔を凝視する。瞬きも出来ずに。
 それを感情の読めない瞳が見返している。
 
 知られていたのは、墓場まで持って行くはずだった秘密。
 生涯、自分の胸の内だけに留めておくつもりだった、ただひとつの。
 
 
 
 
 
 
 
 

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