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かりやど〔参拾四〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
取り戻せない
もう、あの笑顔は
 
わかっていても
取り戻したかった
 
 

 
 

「おはよ……」
 昇吾が遅い朝食の用意をしていると、美鳥が目を擦りながら起きて来た。
「おはよう。……眠そうだね。昨夜は良く眠っていたと思ったけど……」
 基本的に、10時までは美鳥が起きるのを待つ、と言うのが昇吾の中でのルールである。10時に起きて来なければ起こす。代わりに、朝が遅い場合は昼寝をさせず、夜、早く眠らせるようにするのだ。
「……何か、夢見てた……」
 実は、その前日、水曜の晩の夜更かしが祟っている、などとは言えずに誤魔化す。体力のなさを痛感しながらも、こればかりは一長一短と言う訳には行かなかった。
「じゃあ、ほら……せめて、しっかり食べて」
 そう言いながらコーヒーを渡される。
「……ありがと……」
 湯気の立つマグカップに口を付けながら、新聞を引き寄せテレビのスイッチを入れると、
「新聞は後。ちゃんと集中して食べて」
 途端に昇吾に窘められた。
「……何か、朗ってばお母さんみたい……」
 ブツブツ言いながらオムレツを頬張り、トーストを齧る。それを聞いて笑った昇吾が、不意に流れ出したテレビのニュースに釘付けになった。
『先ほど、入った情報によりますと、今朝方発見された女性の遺体は、大手建設会社、黒川建設・黒川莞二社長の令嬢・玲子さんである事が判明しました。玲子さんは……』
 茫然とする。自分はまだ何も本多とコトを進めてもいなければ話を詰めてすらいないのに。
 同時に、掌の汗を握りながら横目で美鳥を窺っていた。だが、美鳥は全くテレビに気を留める様子はなく、黙々と朝食を口に運んでいる。
(……美鳥は黒川玲子の事を知らないんだった。……そうだ、名前すら……ぼくが慌てたりしたら却って不審に思われてしまう……)
 平静を装い、昇吾も朝食を食べ始めた。コーヒーの苦味も、バターのコクも何も感じない食事を事務的に口に運ぶ。
 ニュースによれば、玲子を殺した犯人は複数人であり、不良グループや暴力団の類いである可能性が高いと言っている。であれば、遣り口から言っても本多たち親衛隊ではあり得ない。第一、昇吾自身はまだ何の指示も出していないのだ。
(……他にもいくらでも恨みを買っていそうな女だ……ぼくより先手を打った人間がいると言う事か、もしくは、裏の仲間との諍いでも起きたのか……)
 正直なところ、昇吾はホッとしていた。
 黒川玲子を赦す事は出来ない。
 このまま野放しにするつもりもない。
 だが、自分が手を下す事への堪らない抵抗感。
 自分でもどうにもならない、断罪する事への罪悪感。
 その葛藤の中、しかし脳裏を過るのは美鳥の姿。発見した時の、あまりに酷く無惨な。
 綺麗な顔は輪郭が変わる程に腫れ上がり、身体中、白い肌に惨い痣。治療している時の人形のように虚ろな瞳。
 目が見えない中、見も知らぬ男たちに連れ去られ、無理やり服を脱がされ、押さえ付けられ、殴られ……どれほど恐ろしかった事か。思い出すたびに、何故、玲子を振り切ってもっと早く帰らなかったのかと悔やまれる。
 綺麗に治った顔を見つめ、思う事はひとつ。
(……やはり赦す事は出来ない……)
 玲子だけではない。そもそも、松宮家の事件がなければ、美鳥と玲子が交わる接点はなかったはずである。あったとしても、違う形だった事は間違いない。
 それならば──。
 本当の元凶は、玲子の父である黒川莞二を含む輩、そして黒幕。そのままにしておく事は出来ない。
「………………ようよ」
「……えっ……!?」
 頭の中が今後の事でいっぱいだった昇吾は、突然の美鳥の声で我に返った。
「……ごめん……良く聞いてなかった」
「もぉ、さっきからずっと~……何、考えてたの?」
 拗ねてふくれる顔が可愛くて、ささくれ立った気持ちも思わず和む。
「ごめん、ごめん。特に何かを考えていた訳じゃなくて、ただ、ぼんやりしてたんだよ」
 ふくれたまま昇吾の顔を上目遣いで見つめ、
「今日の夜はゴハン食べに行こう、って言ったの。近くに新しいお店出来たって!」
 新聞の折り込み広告をチラ見しながら嬉しそうに言う。どうやら洋食の店らしい。
「……そうだね。そうしようか」
「うん!」
 ご機嫌が直った美鳥の笑顔を見つめながら、二度と失いたくない気持ちが膨れ上がって行く。
(美鳥に知られないようにコトを運ぶには……)

 懸命に考える昇吾を、予想もしなかった衝撃が待ち受けていた。
 

 
 その夜、食事に出かける支度をした昇吾が、美鳥を呼びに行くと話し声が聞こえた。扉が完全に閉まっておらず、微かに洩れて来る声。
(……電話中か……?)
 さすがに電話を邪魔をしては悪いと思い、部屋の外で立ち止まる。──と、図らずも会話の一端が聞こえて来た。
『……そう。うん、わかった。じゃあ、予定通りに進めて』
(………………?)
 心の中に引っ掛かりが出来る。
(夏川先生じゃないな……佐久田さんか……?)
 どこか不思議なものを感じ、扉に手をかけようとした時。
『……後始末が終わったら連絡頂戴ね』
 手が止まる。瞬きも。
(……後始末……?……一体、何の事だ……?)
 立ち尽くす昇吾の耳に美鳥の声が飛び込んで来る。
「朗?こんなとこでどうしたの?用意出来たよ。ゴハン食べに行こ!」
 明るく言う美鳥に腕を引かれ、中途半端な疑問は押し遣られた。
 
 昇吾の腕を引っ張り、ぶら下がるようにして歩く楽しげな横顔。見下ろしながら自然に口元が綻んだ。
 数日前にオープンしたばかりとあって、店は盛況だったが、すんなり席に通される。メニューを見ながら、ここでも美鳥は楽しそうであった。
「グラタン食べたいな~……あ、でもオムライスも美味しそうだし……ハンバーグも捨てがたいなぁ……どうしよう……」
 あれこれ迷っている姿が可愛くて、口が緩みそうになるのを堪えていると、
「ねぇねぇ、朗は何にするの?」
 いきなり話をフラれ、思わず焦る。
「翠が食べたいものふたつ頼んで、それを半分ずつくれてもいいよ。ぼくは何でも食べるから」
「ホント!?」
 苦肉の策で逃げると、美鳥の目が輝いた。
 結局、美鳥はグラタンとオムライスとハンバーグを全部頼み、昇吾と半分ずつ食べた。正確には半分より少し少なめかも知れないが、その後でデザートもしっかりと。
 こうしている姿は、ふたりの内情など知らない人間には、仲の良いカップルにしか見えないに違いない。
 
 満足して帰宅し、美鳥は早々にシャワーを済ませて部屋に入った。
 朝が遅かったため昼寝をしていないからであるが、昇吾が念のために様子を覗くと、ベッドの上で布団もかけずに俯せに寝ている。しかもシャツしか着ていないので脚は丸出し状態。
(……まったく……風邪ひいたらどうするんだ……)
 寝ている身体を持ち上げてズラし、布団をかけようとすると、いきなり腕を掴まれて引っ張られる。
「うわっ!」
 そのまま倒れ込んだ昇吾の目に、ニヤニヤ笑う美鳥の顔が映った。
「……また狸寝入りに騙された……」
 溜め息混じりに洩らし、どこまでも学習しない自分に落ち込む。
「だってさぁ~……最近、朗ってば途中で寝ちゃうんだもん」
 これも痛いひと言だった。
「……はぁ……」
 片手で顔を覆う昇吾。その首にするりと腕を回し、美鳥が口づけた。
「……朗……」
 耳を直撃する甘い声、心まで溶かしそうな表情。
 
 案の定、自分の意思とは関係なく溶かされつつあった昇吾は気づかなかったが、サイドボードに置かれた美鳥の携帯電話のランプが点滅する。それを美鳥は目だけで確認し、昇吾の背中に指を這わせた。
 

 
 翌日の夕方。
 
「翠……明日は先生のところだからね」
 念押しする昇吾に、「はーい」とやる気のなさそうな返事をし、美鳥がキッチンに立った。
「今日は何を作ってくれるの?」
 テキパキと何かを作る姿に、入り口に寄りかかった昇吾が訊ねる。
「今日はシチュー……赤いやつ」
「……ふ~ん……」
 ビーフシチューの事らしい。
 ここ最近、美鳥は時々こうして食事を作ってくれる。春さんたちに仕込まれたと言うのは本当らしく、作る料理はどれも美味しかった。
 程よく煮込まれたところで食事となり、途中で美鳥がテレビをつけると、ちょうど夜のニュースが始まったところであった。
「………………!」
 再び、昇吾はニュースに釘付けになった。
 アナウンサーが語るところによれば、黒川玲子殺害の犯人と思しきグループが判明し、警察が行方を追っている、と。
(……そんな都合のいい事が起こり得るものなのか……!?)
 言い方は悪いが、確かにこちらとしては好都合だった。だが、それにしても、どこか、何か、引っ掛かる。
「……朗……?」
 スプーンを持ったまま手が止まっている昇吾を、心配そうな目が覗き込んでいる。
「……いや、ごめん……何でもないんだ……」
 取り繕うように、千切ったパンを口に運んだ。
(気づかれる訳には行かない……)
 食べる事で平静を装おう。
「……そう?」
 そう言って再びスプーンを動かし始めたその時、美鳥の携帯電話が点滅した。
「ん?」
 口に入れた肉をモグモグと噛み、飲み下そうとしながら電話を手に取る。
「……ふぁい……もしもし?」
 最初の一語に昇吾が笑いを堪えた。──と。
「……うん……見たよ……うん……わかった……ご苦労様。うん……じゃあ、また……」
 その言葉に、昇吾の意識が引っ掛かる。
(……ご苦労様?)
 昨日の電話の事も相俟って、再び昇吾の心に湧いた疑惑。
「……翠……誰からの電話?」
「ん?本多さん」
 答える目には、何も躊躇いの色はなかった。だが、昇吾の中に広がる黒い黒い雲のような感情。
「……何で本多さんと?佐久田さんならまだわかるけど……」
「……おかしい?でも本多さんは松宮の親衛隊なんだし……」
「……きみが連絡を取るような訳があるとは思えない……。……翠……何かぼくに隠してないか……?」
 次第に昇吾の声が震えて行く。
「……別に?」
 無邪気にキョトンとした表情。信じたい気持ち。だが、消しても消しても消えない黒い雲が、ますます昇吾の心を覆い尽くして行く。
「……翠……本当に?本当に、何か危険な事や厄介な事に関わってないね?」
 美鳥の正面に立って肩を掴み、目を覗き込んだ昇吾が念を押した。
「ないよ」
 即答する美鳥の目が、昇吾の背後にあるテレビの方をちらりと見る。その視線につられた昇吾が振り返ろうとした時、目の端に映った美鳥の表情。目は変わっていない。だが、その口元が──。
 一瞬だけ、僅かに左右の口角が確かに上がった。昇吾はそれを見逃さなかった。
 心の中に、疑惑よりも黒く暗い、悲嘆と絶望の淵が広がる。追いつめられた足元は頼りなく、そよ風でも煽られて落ちてしまいそうだった。
 
 流れて来るテレビの臨時ニュースでは、先ほど判明した黒川玲子殺害の犯人と思しきグループが、別のグループとの抗争事件を起こした、と言っている。しかも、そのグループと双方合わせて約二十人全員が死亡し、たった今、警察が発見した、とも。
 
 昇吾の足は今にも踏み外しそうであった。信じたくないと言う気持ちと、まさかと言う疑惑と、そして間違いないと言う確信が鬩ぎ合う。
「……翠…………翠……まさか…………まさか、きみは……」
 感情のこもらぬ目で、美鳥は昇吾を見上げた。瞬きも忘れ、見開いた目で見つめ返す昇吾の指が小刻みに震えている。
「……バレちゃったら仕方ないかぁ。そうだよ。黒川玲子と、その仲間たちを共倒れさせたのは私。でも危ない事なんてしてないよ?本多さんたちがちゃんとガードしてくれてるしね?」
「そう言う事を言ってるんじゃない!」
 掴んだ肩を揺さぶりながら昇吾が絶叫した。
「……何故……」
「……何故って……私がされた事を思えば不思議じゃないでしょ?」
「……そうじゃない!何故、黒川玲子や仲間の事を知っているんだ!本多さんたちが調べた事であっても、きみから訊かなければ話題になるはずがないだろう!?」
 昇吾の目が、まるで美鳥の心に入り込もうとするかのように迫って来る。
「……聞こえたんだよ……連れて行かれた時に、あの男たちが話してるのが。それから、他の状況と照らし合わせて推測から確信に辿り着いた……それだけだよ」
「……何て事だ……」
「……どうって事じゃないよ」
 固まったまま呟く昇吾に、美鳥は平然と言い放った。
「……翠……!……これきりだ。こんな事に関わるのも、本多さんたちと連絡を取るのも、もう止めてくれるね?」
「それは出来ないよ」
 懇願する昇吾に、即答する美鳥。
「……何故……!……もう、黒川玲子も実行犯もいないんだ……!これ以上は必要ないはずだ……!」
「そもそもの元凶が残ってる」
「………………!」
 昇吾は茫然とし、美鳥の目を見つめた。
「私は、松宮の事件に関わった犯人たちを、全員、この手で追いつめるよ」
「……翠……!……頼むからもう止めてくれ……!これ以上は……代わりにぼくがやるから……!」
「……やめない。……大体、本来は朗には関係ない事だよ」
「……それは確かにそうだけど……」
 何とか説得しようとする昇吾の焦る顔を見上げ、美鳥は半分睫毛を伏せた。
「……だから、もう、朗は私の傍にいなくていい。小松崎朗としての生活に戻るなり何でも……自由にすればいいよ」
 そう言い放つと、美鳥は昇吾に背を向ける。
「…………翠…………!」
 投げつられた言葉は、昇吾にとっては信じられないものだった。自分に対して、自由にどこへなりと行け、と言っているのだ、美鳥は。
(……何故、こんな事になってしまったんだ……)
 だが、昇吾にしてみれば美鳥の言うように『どこへなりと行く』事など出来るはずもない。
 本物の朗から奪った生活を、自分が享受する訳には行かない。朗が戻るまで、自分は待ち続けなければならない。
 そして、朗との約束通り、何としても美鳥を守り抜かなければならない。
 何より、自分の境遇を取り戻さなければならない。
 
 何故、美鳥がこんな事になってしまったのか、今の昇吾には全くわからなかった。わからないが、自分の取るべき道がひとつしかない事だけはわかっていた。
 
「……翠……ぼくはどこにも行きません」
 動きを止めた美鳥が振り返った。
「ぼくは、どこまでもあなたと共に行きます」
 じっと見つめる美鳥。
「……好きにすれば……」
 素っ気なく言い、部屋に引っ込もうとする。昇吾はその腕を掴んで引き寄せ、強引に身体を持ち上げた。
「……ちょ……!何するの!?おろしてよ!」
 暴れる美鳥をベッドに投げ出し、上からのし掛かって押さえ付ける。
「……何のつもり?」
 暴れたせいか、肩で息をする美鳥が下から睨み上げると、昇吾も息を弾ませながら答えた。
「……その気になれば、ぼくはあなたを力づくでも止められる、と言う事です。身体の事も考えず、ひとりで勝手に動こうとするなら、ぼくもその気で相対しますよ」
 美鳥の眉が持ち上がる。
「……やれるならやればいい。指図は受けない。私は私のやりたいようにやる……止められると思うなら止めてみればいいよ」
 売り言葉に買い言葉。互いに挑戦状を叩き付け、そして受け取ったふたり。
「……どいてよ。本多さんに連絡する事あるんだから……」
 苛立ちを隠さない声。──と。
「……ならば、動けないようにするまで……」
 その言葉を訝しむ美鳥は、初めて昇吾に本気の力で押さえ込まれたのを感じた。
「………………!」
 
 そのまま昇吾の熱に飲み込まれながら、それでも互いに、もう後戻りは出来ないところまで来てしまっている事に気づいていた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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